源氏物語とルッキズムに関する話

源氏物語は日本文学の最高傑作と言われている。
2024年の大河ドラマのテーマにもなっており、注目は高まっているであろう。その注目に便乗して私も書いていきたいところであるが、最高傑作たる所以については高名な研究者の方々によって詳しく書かれているので、私はこの物語のある巻で感じた紫式部の鋭い観察眼について書いていこうと思う。

その巻は少女である。
少女は光源氏の子である夕霧に焦点を当てた巻である。この夕霧という人物は自分の身分への屈折や恋愛がうまくいかないところなど、源氏よりも共感できる人物で、彼の魅力だけで一つ書き上げることができるが、今回は話が反れるので割愛して、観察眼を披露する場面まで飛ぼう。源氏の意向により夕霧の養母を源氏の妻の一人、花散里が請け負うことになる。夕霧はこの花散里との暮らしを通して、源氏の女性観を垣間見るのである

夕霧曰く花散里の容貌は並み以下である。しかし、源氏は容貌で女性を見限るような真似はせず、むしろ花散里の心優しくつつましい性格に惹かれ、心の隔てない仲睦まじい関係を築いている。夕霧はこの様子を見て、容姿のみに囚われている自身を反省し、花散里のような心優しい女性を愛そうと源氏を見習おうとする。しかし、夕霧は源氏が花散里との間に幾重もの隔てを置き、顔を隠して接していることを見抜くのである。

何と言えばいいか、千年後のルッキズムの問題を見通していた紫式部が凄いのか、千年間同じところをぐるぐる回っていた我々が愚かなのか。私はルッキズムの問題をここまで簡潔に示していることに、衝撃だったのだ。確かに容姿と性格のどっちを優先すべきかと聞かれれば、恐らく殆どの人は性格と答えるだろうし、それは恐らく本心からであろう。しかし、現実に容姿の好みでない優しい性格の人と付き合ったり、結婚したりする人はどれだけいるだろうか。容姿よりも性格を優先したいという本音と、しかしどこかで相手の容姿を気にしてしまうという本音のぶつかり合いこそが、ルッキズムを解決するための根幹なのではないだろうか。

では、ルッキズムを解決するために現在何が行われているといえば、美人と言ってはいけないなどの、言葉から容姿に関することを封じ、容姿を気にしないようにさせようという試みではないか。それはただ本音を表面から見えなくさせる、謂わば臭いものに蓋をすることではないだろうか。今必要なのはそんなだましだましの手ではなく、その本音のぶつかり合いを、ヘーゲル流に言えば、止揚させることに意義があるのではないだろうか。

源氏物語の文章の中には、この様な現在にも通用する紫式部による鋭い評言が散りばめられている。これこそが源氏物語の凄さを表しているのではなかろうか。

少々堅苦しい文章になってしまいましたが、最後までご覧になられた方、ありがとうございました。


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