タイムパフォーマンスとデジタル化について

最近、映画や動画、更には大学の講義を早送りで見る若者のニュースを見る。現在、齢25の私は別に早送りをすることがないので、こんなことをする人はと言語道断、バッサリ切り捨てるということは簡単であるが、正論をぶつけて悦に浸るのは少しさもしい気もする。何故早送りにするのか、その思考や気持ちを考察することによって、現在の社会の流れを読み解くことの方が面白そうでもある。

単刀直入に言って、私はこのタイムパフォーマンスを求める流れが、思考のデジタル化によるものだと考えている。

デジタル化と言っても、脳がコンピュータに取って代わられてといったような空想めいたものではない。それを説明するには、まずデジタルという言葉をアナログと対比させて説明していこう。

アナログとデジタルの違いは、ざっくり言えば連続的か離散的かの一言に尽きる。アナログは0と1の間に無限の小数が連なるわけだが、デジタルの間にはそれがない、0と1という飛び飛びの値しかないのである。この違いを味わうには、フィルム写真と今の写真を見比べるといい。フィルム写真よりもデジタル画像の方が全体的にくっきり見えるだろう。フィルムは連続的、つまり色の違いを無限に表すことが出来るため、色の差が非常に細かい。一方デジタルは離散的、つまり色の違いを飛び飛びの値でしか表現出来ないため、0.3は0と切り捨てられる様に色の細かい差が多少なりとも誇張されてしまう。よって、デジタルのほうがくっきりしてしまうのだ。

この離散的という意味合いで、映像を早送りで見るという現象を見ると実に腑に落ちる。映像を早く見ることによって細かい部分を落とし、要の部分だけ抜き取ろうとしているのではなかろうか。これが私の言う思考のデジタル化である。

この思考のデジタル化の流れは凡そデジタルネイティブだからこそなのだろう。コンピュータの発達により、取り扱う情報の量が倍々ゲームのように増えている現代社会に適応するために、一つの情報のバイト数をなるべく減らし、多種の情報を取ることのできるデジタル化という手段を取らざるを得なかったのだろう。

それでも納得のいかない人もいるであろうが、そもそもこのデジタル化というものは最近始まった話でもあるまい。個々の人間を見ずに世代で一括にしてみたり、程度の差があっても左翼だ右翼だと言ってみたり、今回の件であっても早回しで見ない若者もいるだろう。遥か昔の孟子と荀子は性善説や性悪説等と、生まれたばかりの人を善と悪の二極化するというとても大胆なデジタル化を行っている。病気の母を見舞うために花を摘んで持っていく子供の、母を労る優しい気持ちと花の気持ちを考えずただ茎をへし折る残酷さ、この二面性の片方を無視して情報を軽くしたことが倫理を発達させていったことは否定しない。

然し、と私は言いたい。このデジタル化によって落とされた情報は果たして本当に必要がないのであろうか。このことを考えると私の中学の頃を思い出す。私は当時外山先生の「思考の整理学」を読んでいた。要旨に全く関係のない、バナナの皮で革を鞣すことができるという意の一文を読み、そのことがずっと気がかり、私はその年の夏休みの自由研究で果物の皮について調べたのである。これはデジタル化によっては得られない経験ではないであろうか。

どうせ、コンピュータやAIの発達スピードに人間の脳はついて行けまい。コンピュータにも出来るデジタルのことは任せておいて、人間は人間にしかできないアナログなことをやればいい。きっと0と1の狭間には、金塊のような新たな発見が無限に広がっている。

長くなってしまいましたが、最後まで読んで下さった方ありがとうございます。

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