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【鳥公園キックオフミーティング】②3つの演出プラン

この記事は、鳥公園新体制に向けたキックオフミーティングの議事録です。今回は第2回です。前回の記事はこちらからどうぞ。

『終わりにする、一人と一人が丘』

西尾:お話中だと思うんですけど、そろそろ一人目から発表しましょうか。ながらさんから行きます。

①和田ながらの演出プラン

和田:どうぞお鍋をつつきながら聞いて下さい。私もついついビールをいただいてしまいました…。
 さて、私が普段どう作品を作っているのか申し上げますと、既存のテキストを使うか、テキストはなくモチーフのまわりをうろうろするか、大きく二つのパターンがあります。
 テキストを使う場合は、とにかく稽古場で読む。そして、俳優と一緒に稽古場でテキストと付き合うまでは、あまりなにも決めないようにしています。若い頃は色々決めてから稽古に臨むべきだと思っていたんですけど、あらかじめ準備できるプランって面白くないんですよね。頭だけで考えるのは限界がある。それから、これは自分の資質として、一回決めるとなかなか後戻りができなくて。もし面白くない方に決めてしまっていたら…と慎重になりすぎ毎回ぎりぎりまでひっぱって周囲を心配させてしまうんですが。クリエイションを始める時はなにも決めずに、なるべく風呂敷を広げるというか、風呂敷のフチが見えないようにしています。

 とはいえ、本当に手ぶらかと言われるとそうではなくて、その戯曲における自分なりのトピックのありかを俳優とシェアするところから稽古を始めます。今日は、そんな稽古初日みたいに喋ってみようと思います。

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 まず作品全体の感想めいたところからいくと、西尾さんが演出された上演も含めてですが、場所、時間、人物といった境界線が溶けているという印象を受けました。
 一人の人物を二人の俳優が演じていたり、異なる時間・空間を生きている人物たちがゆるっとつながって聞こえあってしまう。

 時間の話で言えば、さまざまなエピソードが、夢なのか、記憶なのか、現在進行形なのか、判然としない。戯曲を読んでみると細かく年号が書いてあって、しかし上演にとってその整合性が必要というよりは、時間が揺らいでいることそのものが恐らく大事にされている。現実と近いのは2018年で、なんとなくここが戯曲においての現在かと思ってしまうけれど、未来にあたる年号も出てくるから、そこから見返しているのかも? でも、原点がどこかは明示されない。

 場所については、たとえば最初のシーンのフードコート。フードコートってそれぞれの店のにおいがまざっている場所ですよね。それからお風呂。大浴場みたいなところで、いろんな世代の身体が同じ湯につかっている。温泉宿の個室についているお風呂にも、二人で入る。複数人が衣服という境界をいったん取り払って裸で混ざる場所としてのお風呂が扱われています。

 また、印象的だったのは穴。歯の詰め物が取れたことで数十年前の光景を思い出した、というくだりがあります。詰め物が取れたということは、歯に穴が空いていた。詰め物という蓋が開くことで、記憶が蘇る。最後のシーンにも、夢の中で歯の穴の底に子どもがいて、という語りがある。他にも、人と人との関係の終わらせ方をミスった時に穴の底に沈んでタタリ神化してしまう、という台詞。
 それから、「記憶が私を訪れる。私は、記憶に、訪れられる。私は〈場所〉で、そこを記憶が通過する。」という台詞。これは、この戯曲における俳優論、演技論として重要なことを言っているんじゃないか。言葉、記憶、場所が訪れてくる、場所としての俳優。

 演技論としてもう一つ注目しているのは、「散文の異常さ」というシーンのト書きにある「女3、目の前の情景を言葉で描写しながら、言葉のそのリニアな線にのり切らずこぼれるものを周辺視野で拾いながら、喋る」。フォーカスの外側、外に溶けていく全体みたいなものをどう捉え、含みながら演じるのか。しかし、ここで書かれていることを実践する時に、台詞決まってんじゃん、みたいなことが具体的に問題になってくるんだろうと思うんですよね。この感覚を探るワークというのも必要になってくると思いました。

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・西尾戯曲の特徴的なところ

和田:西尾さんのこれまでの作品と共通する部分は、食べ物がたくさん出てきて、かつ、それを食べる描写が多いということ。お食事中にあれですが、排泄のイメージも出てくる。そして、その排泄に関わる部位としての性器が具体的に描写される。大きいお風呂で幼い男の子がお母さんとしゃべっていて、透明なおしっこをしてしまうという場面。女性の登場人物自身とは異なる排泄器官/性器を持っている男の子のおしっこがお風呂に混ざっていく。象徴的なシーンだなと思います。

 あと考えたのは、中心的な人物として描かれている女1ないし女3、彼女たちのマイペースさが他者とぶつかる摩擦みたいなものを、西尾さんの上演よりも引き出せたらいいなと。まあ、口ではいくらでも言えるんですけれども……と、いうところで、次の演出家に渡そうと思います。ありがとうございました。

②三浦雨林の演出プラン

三浦:三浦です。パワーポイントみたいなものを作ってきました。
 演出プランを考えることになった時、そもそも演出ってなんだ!?となりました。私にとっては、俳優と一緒に作って、身体と言葉と空間が揃った時にようやく見えてくるものなので、演出プランというような具体的な話はあんまりしません。
 最初に、わたしの普段の創作方法についてお話しようと思います。

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 (スライド投影)戯曲を読んだ時、言葉と出会うということを心がけて読んでいます。書いてある単語とか、せりふ、流れ、ト書きの一文と出会うことを目指していて、普段はテキストレジか再構成のための言葉の選択を主にしています。

 そこで抽出した言葉を考えるというのが二番目の準備。どうしてこの言葉にわたしがきらめきを感じたのか、この戯曲の中でどうしてその台詞が大事だと思ったのかをできるだけ言語化していきます。俳優に説明ができるように。

 そして、三番目にテキスト化を行います。基本的には上演台本を書いていますが、テキストレジ不可のコンクールに参加するような時は、演出ノートやサブテキストを俳優に渡しています。なにを考えているかがあらかじめわかるように準備をする。

 三番目に稽古がはじまって、それまでのプロセスを経て俳優と一緒に考えていく作業になっています。あ、(スライドに)三番目が2つある!!(会場笑)

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三浦のスライド1

 四番目が稽古でした。で、俳優と作りながら、音楽を作るということを同時並行でやっています。いつも宮川という、普段ミュージカル音楽を作っている人に作曲してもらっています。いくつか作ってもらった曲を劇中でどう構成するか二人で一緒に考えて、試してみるという方法をとっています。生演奏なので、うまくいったりいかなかったり、とにかく稽古場でやるしかないということもあるんですが、俳優と同じような稽古をしています。楽譜を渡したりはほとんどしません。
 いつも一緒に演奏してくれてる方は、ふだんクラシックをやっている音楽家なので、私が「芝居心で」と言うと、すごい困った顔をして「それは何拍子ですか?」と聞いてきたりして、困惑させています。最近は慣れてきたみたいで、とにかく稽古で遊んでみています。

 五番目に、いつの間にか演劇になっている。これが私が「演出わからねえ」となっているところです。毎回演出をどうやっていたか忘れちゃう。でも、私の中でメソッドはあって、それは俳優と音楽家と戯曲と、それぞれの時間で変化しながら一緒にみんなで作っているということが強いんですね。だから一人になった時に、言語化が難しいんじゃないかなと最近考えています。

 言葉を抽出する選択をすることについては、ほぼほぼ、言葉オタクみたいな感覚に近いような気がするんですけど、戯曲の中で「この言葉を書くためにこの戯曲は生まれたんだ!」という一文のきらめきみたいなものに出会った時に、それをどうやって俳優に言ってもらうか、舞台にのせるかを考えて読んでいる感じ。その言葉自体の意味ではあまり考えていません。とにかく情動みたいなものを手にとっています。

・「体」と「時間」と「選択」と「穴」

三浦:では『終わりにする、一人と一人が丘』でなにをやろうかという時に、プロセスの一番目と二番目まで、準備までをお話しようと思います。
 キーワードとしては「体」と「時間」と「選択」と「穴」を挙げました。ト書き「(声は途切れない)」と女1の台詞「何してるの?」、これは舞台に最ものせたいと思った言葉です。「散文の異常さ」でかなり長い台詞を言ったあとにぽろっと「何してるの?」という台詞が書かれていて。これだ!と。

 時について。元恋人とどうやって関係が途切れていくかという話の中で「終わりには幅がある」という台詞があるんですね。終わりにも幅があるということは始まりにも幅があって、今にも幅があるなと。(スライドを示しながら)矢印がついている方は、時間が流れていくイメージ。目盛りがあってどこかからどこかに行くようなイメージを「時間が流れる」と言いますが、私は、時は流れないと思っていて。たとえば、足元にガラスの板が重なっていくようなことが時なんじゃないかなと。ガラスが重なっていって、過去になればなるほど見えないけど、自分はそのガラスの上に立っている、たまにきらっとその記憶が鮮明に見える、それが思い出すということなんじゃないかな。そういう考え方でこの戯曲をやってみたいなと考えました。非連続の連続、自分の中で流れないで蓄積していっているという感覚。

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三浦のスライド2

 二番目に「選択していないのにわたしに携わってしまうもの」。今回、衣装などによって自分の体、生まれ、ことば、両親みたいな、どうしても選択できなかったもの、選択していないのに受け入れている、受け入れてないかもしれないけどどうしても持ってしまっているものを表出させたいなと。例えば衣装によって俳優の肉体に制限をかける。前がよく見えないとか歩きにくいとか。

 三番目に、今回歌を歌ってたんですよ。ユーミンの「翳りゆく部屋」。
 歌ってすごく良くて、自分が生演奏を使うことをあらためて考えたんですけど、音楽は変わらないまま、受け取った人が持って帰れるんですね。メロディは、持ち帰れる情動だとわたしは思っていて、それはすごくいいなって。今回、劇場ではあの歌が何回も歌われるんですけど、上演後も耳から離れない。今も歌えるし、なんなら戯曲読んでる最中もずっと頭の中で流れている。音楽は時間を劇場からそのまま持ち出せる数少ない手段の一つだと思っています。
 最後なんですが、「終わりにする、」っていうタイトルをそもそも誰が言ってるのかは、ちょっと避けられない問題だなと思っていて。答えは出ないんですが、どうしても西尾さんを知ってしまっているがゆえに、西尾さんが言っていると思ってしまう。劇中の誰でもない、もちろん西尾さんがつけてるし西尾さんが書いてるから西尾さんが言ってるんですけど、西尾さんの影がすごく見えるなと。演出プランを考えている時にも、わたしが入る余地あるか? と思っていて、うーん、難しい。劇作家と演出家を離して考える時間が必要だというのを今回戯曲を読みながら強く感じました。だから、正直、あんまりやりたくないです(会場笑)。すごい時間が経って、西尾さんが「これを書いた頃はね……」みたいになればイケるなって思うんですけど。

西尾:なるほどー
三浦:でもいつかやりたい。
西尾:うんうん。忘れた頃に。
三浦:そう、誰も忘れた頃に、それこそ2054年とか出てくるんですけどその頃だったらできるかもしれない、ゆっくり。ありがとうございました。(会場拍手)
西尾:いまご質問がひとつ届いたんですけど。あとでお答えしますが、キャスティングは誰がイニシアチブをとるのか。そうですよね。あとでみんなで話しまーす。

③蜂巣ももの演出プラン

蜂巣:じゃあ話していきます。
 雨林が言っていた「わたしのいる意味あるか?」って、いつも考えるんですよね。
 また、いつも違う戯曲や劇作家を扱っているのに同じ手法や同じ演技で立ち上げることに強い疑問があり、その戯曲をやる必然性というか、その戯曲ならではの外せないな!っていう部分をまず探したい。
 その次に、これは私の体質なんですけど、その戯曲に憑依したいみたいな感覚があるんです。戯曲なりの躍動部分に自分自身もノっていきたいというか。
それがまずどこに定められるかを見つけるために、毎回こういう(模造紙を示す)のを作るんです。どういうシーンかを整理して、なにが通底しているのかを洗い出していきます。

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蜂巣の演出ノート1(模造紙掲載内容)

 『終わりにする、一人と一人が丘』を読んで、非常に共感することが多かった。
 出会い系はけっこう刹那的で、付き合いたいという関係目的があって登録して会うけど、関係性がとても弱い。喧嘩したり、合わないと思ったらすぐに離れちゃう。今後家族になる、長い関係を結ぶべき目的で会った人のはずなのに、あっけない終わりが来る。なぜ終わるのか曖昧で結果しか確かなものはない、けれどその場所に行ったら明瞭に思い出すだろう、そういう一瞬の濃い記憶みたいなものが気になっていました。

 それらの「儚い」シーンが、長いスパンでそ構成されていることも面白かったです。
 (模造紙の)青で示した字が、その男女のシーンで、通底して日常的な会話でこまやかにゆっくりゆっくり展開されて、その様子を離れたところから西尾さんや観客が見ている、というように私は読みました。
 もう一つ長い時間かけられているのが老婆のシーンですね。さっきユーミンの歌っていっていたところ。老婆は認知症が入っているようで、旦那さんと別れる前の記憶をずっと思い出している。同じく濃厚な「一瞬」です。

・上演の感触を確かめる

蜂巣:その上で最初に言った、この戯曲を自分が演出する立場で上演する時に、私(演出家)がいる意味あるのか?この戯曲の上演っていうのはなんなのか。俳優に演じさせて、それを何回も遂行させて、あるお芝居、フィクションを実行させる。それ自体の意味を私自身はいつも問うている。それは政治的な行為なんだとか、お客さんにいろんなことを説明し解剖することなのだとか、自分がいるべき立場というのを考えます。
 今回の戯曲は、息の長い時間かけて見る男女の関係や女性の状態と、それらに挟まれるように、お風呂でどんなことがあったよ、あるいはストリップショーでこういうことがあったよ、とエピソードが割って入ってくる。女性器と牡蠣かけてるな、とか、おかしみある変な繋がりがあって、ばらばらにならないように慎重に繋いで書かれていて、ある問題をわたしはこのように思考したっていうレジュメが戯曲として展開されている。演出する時は、そのレジュメ感覚っていうのを大事にしながら上演すると思います。

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蜂巣の演出ノート2(模造紙掲載内容)

 その次に、これはいつも頭を抱えるんですけれど、俳優とどうやってつくるか。いつも本当に、くあーっ!てなる時間で、俳優の感覚がわからないってこともあるので、いまやりたいと思っているのを裏っ返したりして、どうしたらそれがやりたくなるか。
 今日はそれを紐解けるのではないかというワークショップを考えました。俳優とやるだけじゃなくて、一般の方とのワークショップというのも前提にして考えたんですけども。この戯曲を使わない形のワークショップで、このレジュメの劇構造を体感できるようなワークショップです。

①まずここに来る前、最後に出会った友人をひとり思い出してもらう。

②その方に対しての記憶、印象に残っていることを3つ挙げてもらう。
 なんでもよくて、つらかった記憶と楽しかった記憶を挙げてもらってもいいし、一番昔と最近とか、そこはおまかせする。

③二人組になってもらって、それをシェアし、相手役と一緒にその関係を上演してみる。3つをどう組んでもよいので、5分から10分程度演劇にしてもらう。
 無言でもいいし、抽象的な動きであってもいいし、台詞があってもいい。

 ここから期待していることは、この戯曲自体が持っている関係の時間を体感することです。
 特に俳優さんには本番を具体的に踏まえて体感してもらうことになります。一般の方でもシーンを並べ替える楽しさを人とシェアして、こう組み立てればが元の人の存在感に近い感じがするとか考えてもらって、演劇を上演する感覚もちょっと掴めるかな。
 はい。
 けっこう面白いワークショップになると思うな。自画自賛。。わたしの演出プランは以上です。ありがとうございます。

西尾:三人に発表していただいたところで一回休憩しようかなと思います。
 この休憩中に席替えをしたい。残念ながら今気づいたんですけど、お皿を変えるほどのお皿の枚数がなくてですね、鍋の味は変わるけどお皿をもって移動していただかないといけなくて。すみません。
 お手洗いそちらに一個だけなんだけどあります。

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鍋の準備をする西尾さん


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作・演出の西尾佳織が2007年7月に結成。 「正しさ」から外れながらも確かに存在するものたちに、 少しトボケた角度から、柔らかな光を当てようと試みている。
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