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おばけ同好会活動記録|全生庵「幽霊画展」(西尾)

 谷中全生庵の「幽霊画展」に行って、幽霊画というものを、初めて意識的に見た。幽霊の描かれた絵は、たぶんこれまでにも何かしら見たことがあったろうと思うのだけど(薄墨で描かれた女性の、掛け軸のイメージ)、ジャンルとしての「幽霊画」について考えながら、こんなにたくさんまとめて見たのは初めてだった。

■勝文斎の『母子幽霊図』

 一枚目に見たのは勝文斎の『母子幽霊図』(※トップの画像。安村敏信監修『日本の幽霊名画集』より)。第一印象は妙、不自然、コミカル、違和感で、何がどうおかしいか理解したくて、思いがけず長い間立ち止まって見てしまった。

 木製の四角柱が一本立っていて、その奥側に寄り添うように女性が佇んでいる。四角柱はパッと見、橋の欄干を思わせるような太さ。柱の上の方には小窓が付いていて、たぶんその窓の内側に灯りが置かれているのだろう、灯篭のようになって、開いた窓から光が射している。そしてその光にちょうどピッタリ顔が来るように、女性は身を屈めて首の位置を合わせている。照らされた顔は、口角がキュッと上がって「(ちいさく)ドヤ!」という感じに見える。
 照らされていないボンヤリした部分を見ていくと、どうやら赤子を抱いているらしい。相当小さい、生まれたばかりかも。でも、その子を支える女の腕は描かれていない。この子は宙に浮いている? そして、柱を挟んで顔と反対側に、女の身体(後ろ半身)が描かれているのだが、その背の丸まり具合と柱の太さと顔の位置から想像すると、女は首だけを相当前に突き出している。何故こんな無理な格好を……? それに、窓から洩れる光の角度も、遠近法的な写実の感覚からするとおかしい(間違っている)けれど、これはわざとか……?

 などなど、シチュエーションも女の感情もよく分からず、題材に対するこの描き方も、どこまで狙ってやっているのかしら…と戸惑った。作者は、見た人をどういう状態にさせたくてこれを描いたのだろう? 分からないけれど、まるっきり天然という感じもせずなんだかチャーミングで、なんとも後引く面白さだった。
 もしかしたら、この女の幽霊はこの赤ん坊を産んで間もなく、もしくは産みながら、亡くなったのだろうか? 本人は、やり遂げた!という気持ちで、その最期が瞬間冷凍されたのかも。(薄暗がりにぼんやりと浮く赤ん坊は生気がなくて、そうだとしたらすごく切ない。)

 一枚目から、自分の中に上手く位置付けられない、カテゴライズできない作品で、え、幽霊画って一体なに?と改めて思った。以下、印象に残った作品をなんとなくの分類ごとに紹介する。(★は、末尾に載せたリンク先で画像が紹介されているもの)

■幽霊のやり場のない寂しさ

★三代目歌川広重『瞽女(ごぜ)の幽霊』
 
三味線を背負い、左手で杖を付く痩せた女が、水の中に立っている。立っていると言っても、ざぶざぶと水をかき分けて進む足の存在感はなく、着物の裾の先は水面で消えているように見える。女はぼうっと中空を見上げているが、右目は閉じられ、開かれた左目の黒目も白濁し、焦点を結んでいない。

★月岡芳年『宿場女郎図』
 やせこけた女郎が、階段上で振り返って誰かを見つめている。背景には何も描き込まれておらず、パッと見だと女郎の頭上に空がひらけているように見えたので、彼女が求める相手を探して屋根まで登っているような印象を受ける。右手を突いて体を支え、左手はその視線の先へそっと伸ばされているけれど、手指がない。梅毒を患っているのだろうか。その腕につながる骨の浮き立つ左肩が、はだけてずり落ちた着物の襟ぐりから剥き出しに露出している。

松本楓湖『盲人幽霊』
 両目をつぶり、口をキュッととじた剃髪の男性が、細く頼りない杖を身体の前で両手で抱え持って、立っている。男の肌も服も杖も白く、足許にまばらに茂る草は黒で、モノトーンのなんとも寂しい風景。手前には鼻緒の切れた草鞋が一足落ちている。男の目のつぶり方が特徴的で、左目はスッと力の抜けた状態でまぶたが閉じられているが、右目は眉根とまぶたに力が入り、無念さのような、抗いのような表情がある。

川上冬崖『生首を抱く幽霊』
 白い顔、白い着物の女が男の生首を両手で抱え持っている。女の口許と男の生首から流れて染みた血の部分だけほんのり紅い。男の首は美しい顔を少し辛そうに歪めている。けれど女の方は、伏せられた目で男を見つめるでもなく、若干やぶ睨み。もうすべて終わった……という先のない虚脱感が漂っている。

 この四作品はストレートに物悲しくて、この人たちから発される他者への求めや恨み、あらゆる思いや働きかけの受け止められることがない様子に惹かれた。
 ちなみに解説によると、『宿場女郎図』の女郎はまだ亡くなってはいないらしい。『瞽女(ごぜ)の幽霊』と『盲人幽霊』と『生首を抱く幽霊』は幽霊とされているけれど、その自覚があるかというと怪しい気がする。特に瞽女の女性は、歩いて前へ進み続けているように見えて、生前からの行動をずっとそのまま続けているみたいだ。『生首を抱く幽霊』以外はみんなガリガリに痩せていて、十分に食べることが出来ていない(いなかった)のだろうと思った。

■クスッと笑ってしまう系

尾形月耕『数珠を持つ幽霊』
 いわゆる幽霊の典型的なイメージとしてある三角の白い布(天冠というらしい)を額に付けたおじいさんの幽霊が、肩を落としてぷわんと浮いていて、残念そうな、でもまあまあ穏やかな表情でうつむいて、何かを見下ろしている。高さにして2メートルくらい下を見ているような感じ。たぶんその視線の先には、横たわった自分の遺体があるんだろう。幽霊の足はなく、これまた典型的なちゅるんとした尻尾のような形で消えていて、手には数珠を持っている。頭髪はほとんどなくはげちょろけで、体は骨と皮ばかりに痩せ、しかし口許がかすかに微笑んでいるところから、それなりにやり切って全うした末に「そっかーおれ死んじゃったんだなァ」と自らの死を受け入れているような印象を受ける。生者の私でも「わかる」と感じて、「かわいい」という感想を持って見た。

★中村芳中『枕元の幽霊』
 時代劇でよく見る箱枕の傍らに、「オバチャン」と呼びたくなるようなお化け(幽霊というより、お化けと言いたくなる感じ)がチョコンとしゃがみこんでいる。アラジンのランプの精が主人に呼び出されて「はい、何でございましょう」と登場したような「馳せ参じた」感。ぼってり腫れた両まぶたと、これはどうなっているのだろう、左上がりに異様に捻れた唇が不吉な感じ(暴力を受けた痕?)を匂わすけれど、表情のコミカルな親しみやすさのおかげで悲壮感はない。着物の布ごしに、折り曲げられた二本の脚の輪郭がくっきりと見えるが、爪先は画面左下にモクモクと湧くケムリによって隠されている。

飯島光蛾『柱によりかかる幽霊』
 画面右端に木の柱があって、そこに白い着物姿の女がよりかかり、両膝を立ててしゃがみ込んでいる。うなだれた顔にざんばらの黒髪がかかり、隙間から下がり眉と眉間のしわ、そして絶望的な眼が見える。強い憎悪を誰かに向けているというよりは、「ああもうなんでこんなことに…もうダメだもうダメだもうダメだ……」と己の現在地を徹底的に嘆いているような内向き感。落ちた肩と丸められた背と膝の上で重ねられた両手の気の弱そうな感じに、悪いけど笑ってしまいながら共感し、「や、そんなに思いつめなくてもたぶん大丈夫だよ!」と無責任に励ましたくなる人間臭さがある。全体の墨の薄さも、薄幸感があってすごくいい。

■あんまり好きになれなかったもの

伊藤晴雨『怪談乳房榎図』
 『乳房榎』は、『牡丹灯篭』や『累ヶ淵』と並ぶ三遊亭円朝の傑作怪談の一つ。あらすじはこちら
 滝壺の中に、髪を振り乱し鬼の形相の男の幽霊(=重信)が立っていて、こちらをギョロリと睨んでいる。男は赤子(=真与太郎)を抱いていて、全体がモノトーンで統一されている中、その子の血が通った肌と着物の模様、男が殺されたときの肩の血だけ彩色されている。
 物語がベースにあるからか、この絵は分からないところが何もなく、幽霊の強い恨みのこもった様子もすべてexplainable…という感じで面白味を感じなかった。

松本楓湖『花籠と幽霊』
 比較的若そうな女の幽霊が花籠をぶん投げ、片手に自分の髪、もう片手に籠から舞い散った撫子の花をつかんで、悔しそうに身をよじっている。真一文字に喰いしばられた口許には、額から垂れた一筋の髪が咥えられている。分かりやすく悔しさ、無念さ(おそらく痴情のもつれから来る…?)がポーズに表されていて、ハイハイ、まあ美しいとは思うけど……という気分になった。

 この二作品や、他にもいかにも怖いという方向性のものは、あまり面白いと思えなかった。それらは、「幽霊画」という確立されたジャンルの中で、第四の壁のこちら側を楽しませるために幽霊が「幽霊」を演じさせられている気がして、「幽霊とはなにか?」という問いは解消されているし、どこにも落ち着くところのない思いが不思議なバランスで形になったものとしての幽霊、のような救いの可能性は見られないように思った。

■谷文一と谷文中の『燭台と幽霊』

 谷文晁の弟子で後に養子となった谷文一と、谷文晁の孫の谷文中が、『燭台と幽霊』という同じタイトルで全く同じ題材を描いていた。(というか、文一が先に描いて、文中が明らかそれを踏まえて同じ画題をぶつけたということのようだ。)

 文一の方は、黒い漆塗りの背の高い燭台に右手を突いて、女の幽霊が画面右手から現れて今にもこちらへふわりと抜け出てきそうだ。女の輪郭はかなりぼやけて霧のようで、全体に白く透けていて軽い。冷たい目をしている。
 対する文中は、まず黒い燭台がまったく同じもののように画面中央描かれていて、それに対する幽霊の大きさが比率的にずんぐりと大きい。女の幽霊は、顔と手の肌色、髪と目の黒がきっちり彩色されていて、幽霊といってもどっしり体の中身が詰まっていそうな感じがする。体に対して顔が大きい。そして彼女は燭台の後方を画面左手に向かって移動中で、こちら側へ出てくる気配は微塵もない。のっそりしたモグラのような、なにか鈍な感じがあって、それがかえって得体が知れず不気味である。

 どちらも素晴らしいと思ったが、文中の絵により興味を持った。自分が遭遇したら、文中の幽霊の方が「ヤバイ、怖い……!!!!!!」と思うと思う。(★ちなみに、文一の作品のみ文末のリンクから見られます。)

■幽霊画って…

 幽霊画っておもしろいなーと思い、もっと見たくなって図書館で本を借りた。安村敏信監修『日本の幽霊名画集』では、日本画と浮世絵の大きく二種に分けられていて、そうかー全生庵の円朝コレクションは日本画ばかりだったんだなと後から知った。
 浮世絵の方が全般的にモチーフが派手で絵の画面の印象もポップで、歌舞伎のようだった。(それでいくと、日本画は能・狂言みたいかもしれない。私がやり場のない寂しさを感じた系統は能っぽくて、クスッと笑ってしまったのは狂言、みたいな。すごく大雑把な印象だけど。)

 日本画の幽霊画に関しては、私はメタ的・自己言及的な構造を持ったものよりも、幽霊そのものの不可思議さにまっすぐ向かっているものが好きだなと思った。ジャンルが確立されて、その中で蓄積されていく文脈を踏まえた遊びもそれはそれで面白いけど、幽霊って他に落ち着けどころのない状況や感情を請け負ってもらうものとしてとても可能性があると思う。(それって、三浦さんが論文で書いてたことにも繋がるような。)

※こちらで、★マークの作品が紹介されています。
【厳選25枚】江戸時代の幽霊画がめちゃくちゃ怖い【夜見ちゃダメ】
https://edo-g.com/blog/2016/06/ghost.html

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