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『私の知らない、あなたの声』観劇レポート|三浦雨林

こんにちわ。鳥公園アソシエイトアーティストの三浦雨林です。今回は和田ながら演出『私の知らない、あなたの声』京都版・静岡版の観劇レポートです。上演を見ていない方は、こちら(『私の知らない、あなたの声』戯曲)で台本も販売しておりますのでぜひ。

THEATRE E9 KYOTO 

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(上:観劇日に三浦が撮ったTHEATRE E9 KYOTOの裏の川と月)

 この作品はTHEATRE E9 KYOTOでの上演後、ストレンジシード静岡2021での上演と、かなり場所の持っている力が違う二箇所で上演されることになっていた。日程も場所も微妙にはしご出来ず、なおかつどちらも新幹線の距離…という条件だったが、片方だけを見るという選択肢はなかった。同じ作品でも会場がブラックボックスと青天井(かつストレンジシード静岡という通常の公演よりも開かれた環境)では、闇金ウシジマくんPUIPUIモルカーくらい違うはずと思ったからだ。

 上演は真っ暗闇のTHEATRE E9 KYOTOに、一人の男性の姿がゆっくりと浮かび上がるところから始まる。夜中に隣の部屋に続くドアから漏れている光のような照明が刺す中に、ぺたんと男性(登場人物名 平井)が座っている。平井は必要以上に力が抜けており、顔にも体にも覇気がないが、その静かな呼吸にあわせて観客も息を潜める。しばしの沈黙の後、その静かに澄んだ空気に隙間風が吹くように彼の口から空気が漏れてくる。言葉になる前の空気が途切れ途切れに流れてきて、やがて言葉だと認識出来るものになる。喋る練習をしているような発語の末、ようやく出てきた言葉は「明日、琵琶湖に行こう」。拍子抜けするような突拍子もない言葉に、状況を理解するという面では突き放されながらも、身体的には彼の身体・呼吸と観客は渾然一体となっていた。

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(舞台中央:三田村啓示  / 撮影:中谷利明)

 上記で"発語の練習”と記載した部分について、より正確に書くと"体の奥底から出てくる言葉と体を馴染ませている”ように見えたとする方が近いかもしれない。彼の「明日、琵琶湖に行こう」という言葉は発語されるに至るまで、たくさんの言葉にならない体の奥底の感情が混ざり合い、嘔吐するような形で情報としての言葉となって捻り出されてくる。
 この、"体と言葉を馴染ませる" 時間が観客にとって、少なくとも私にとっては非常に重要な時間だった。彼が"体と言葉を馴染ませる"ように、観客も"体と空間・彼を馴染ませる"時間に出来たからだ。彼(彼ら)に流れる時間は我々の日常に流れている時間とズレている。このズレのチューニングの時間が導入に差し込まれていると、観客は自然と舞台上の人物たちの流れに乗ることが出来る。

 また、京都公演では音の効果が非常に綿密に計算されていた。
 物語の冒頭、全く親しくもない平井に呼び出された岩田が琵琶湖に向かう途中、特に話すことのない車内でかけたのは爆音のマッドマックスだった。絶対に琵琶湖ドライブでかける選曲ではない。おそらく平井はこれが何の曲だか知らないのだろうし、映画のサントラだけを聞いてわかる観客も少ないだろう。車内では岩田だけが音楽に乗っており、平井と観客は置いてけぼり。爆音でよく知らない曲を聴かされながら外の景色を見ている平井の身体と、爆音でよく知らない曲を聴かされながら平井を見ている観客の身体は、再び接近し、渾然一体となる。
 その後、回想の中で富永という女性が平井の元に現れる。ふらっと現れた富永が平井家のキッチンで料理をする場面では、全てマイムと富永役 松田早穂 自身の口から発せられる擬音語・息遣いで表現されていた。スピーカーから流れてくるのではなく、彼女自身から音が出ている。これにより、そこで行われている"演技"がだんだんと"行為"になっていく。具材を切る音、卵を割り、それがフライパンに落とされ、急激に熱せられる音。彼女が料理をする姿を見ているうちに、ブラックボックスの中で彼女がいる場所にのみリアルな台所が立ち現れ、やがてはフライパンから上がる湯気までもが見えてくるようだった。

 照明に関してもブラックボックスを最大限活かした空間作りだった。物語は①冒頭の平井の家(どちらかというと平井の精神?)、②平井家の台所、③車の中→③'パーキングエリアの食堂、④平井家のソファという4つの空間で構成されている。今回の公演では、登場人物のまわりだけがにその空間に見えてくるのが非常に印象的だった。物語は時空間が前後左右しながら進行していくため、例えば舞台上に③'パーキングエリアの食堂と②平井家の台所のどちらも存在しているという作りになっていた。この空間作りは俳優達の立ち位置などだけでなく、照明の力が大きかったと思う。いずれも具象と抽象の間、照らすと照らさないの間を揺らぐ空間を作るための照明だった。舞台上にいくつもの空間が立ち上がることは珍しいことでは全くないが、登場人物のまわりだけがミニマムにその空間になり、そして登場人物達がいなくなってもその場所は持続し続けている。そのような作品(演出?)にはあまり出会ったことがなかった。
 総じて、京都公演は音と光が非常に緻密に計算された上演だったと感じた。行為の主体から音が発せられる場合と、音源が隠されている場合の対比がなければ、観客と平井の身体は接近しなかっただろう。観劇後、すぐに考えていたのは静岡のことだった。これはブラックボックスならではの仕掛けが最大限生かされた作品だと感じたため、ストレンジシードという予想だにしないことが起こる場所では一体どうなってしまうのだろうと、人ごととしてワクワクしていた。想像がつかなかった。

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(左:藤原美保 右:三田村啓示 / 撮影:中谷利明)

 いや、しかしTシャツが怖い。「HAPPINESS COMES」ほどこの状況に見合わない言葉があるだろうか。最初に現れた時は「HAPPINESSはどこかからやってくるものなのか?」と疑問に思っていたが、観劇し終わった後「いや、HAPPINESSはどこかからやってくるものではない」という反語だったのだと思う。

ストレンジシード静岡2021 版

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(上:観劇日に三浦が撮った鳥公園の上演会場。このゲートを潜った先の芝生で観劇をする。)

 所変わってストレンジシード静岡2021での上演について。
 私が行ったのはゴールデンウィーク真っ最中、子供たちが走り回り、天国のような初夏の陽気だった。昨年立ち入らなかった芝生ステージに向かう途中、屋台などがたくさん並ぶ公園内を通過する。フリーハンモックがたくさん置いてある木陰や、別の野外フェスティバルを横目に会場に向かう。
 観劇は、劇場に着く前から始まっているとよく思う。THEATRE E9 KYOTOに向かうまでの道は、夕方だったのもあり、薄暗い道を誰ともすれ違わず、月が映る川を見ながら劇場に向かった。劇場に入る前に静かな体になっていたので、芝居が始まってもすぐに馴染むことが出来た。一方、ストレンジシード静岡は鳥公園の会場にたどり着くまでに否が応にもお祭りの体にさせられる。私も浮き足立ち、変な粉のキャンディが棒に入っているのとかドラム缶で作ったパエリアを食べた。とても開かれた素晴らしいフェスティバルなのだけど、上演する作品はこの空気に見合ったものでなければ観客の状態との悲しいミスマッチが起きかねない。静かに去年の自分の作品を思い返していた。

 浮き足立ちながら鳥公園の会場に着く。会場は木や垣根がある入って奥が舞台面で、手前側の芝生に座るという会場の構成だった。客席面ではTHEATRE E9 KYOTOにはいなかった子供たちが座っている。開かれている空間だ。加えて、奥の垣根の後ろでも子供たちが遊んでいる。
 しかし、上演を見ているうちになんとなくわかってきた。これは奥が舞台面なのではなくて、ストレンジシードの上演もTHEATRE E9 KYOTOの上演と同じく、俳優たちの周りだけでミニマムに空間が立ち上がっていくのだった。

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(左:藤原美保 右:三田村啓示 / 撮影:ストレンジシード静岡2021)

 そして、上演中、会場に来る際に通ってきた別のフェスティバルの音楽が聞こえてきた。平井と岩田が会話をしているシーンで衝撃的に聞こえてきたのが、まさかの久保田利伸『LA・LA・LA LOVE SONG』。この曲はどんな場面でも恋に落ちるシーンにさせてしまう魔法の曲で、意図していないタイミングでかかるのは作品としては非常に危うい。無慈悲に流れる動き出したメロディがTHEATRE E9 KYOTOの閉塞感・計算をなんなく飛び越えて介入してくる。二人の奇妙な関係を際立たせるが、なんと作品の抒情が壊されたわけではなく、むしろその流れに乗っていたように見えた。いや、乗っているというよりも、有るものとして受け入れているという方が近いかもしれない。京都で見た時は「計算し尽くされ、介入する隙のない作品」だと感じていたため、予想だにしない外部からの流れに乗ることが出来る柔軟さがあると思っておらず、これには非常に驚いた。THEATRE E9 KYOTOで計算されていた効果や手法は手放していないが、確実に彼らはその土地に馴染んだ状態で存在していた。

 野外劇は俳優ないしは作品が浮いて見える時がある。多くの場合、"その土地に馴染んでいない"、 "居られていない"というのが原因なのではないかと考えている。"土地に馴染む"、 "居られる”というのがどういう状態なのか、私も研究中で答えは出ていないが、あえて現時点で言葉にすると「影が落ちている状態」なのではないかと思う。照明は太陽のみ、尚且つそれを無視しない俳優の身体は、芝生に座る私たち観客と地続きに感じられた。同じ風が流れ、同じ太陽の光を浴び、同じ音を聞いている、という実感があったのは俳優がその環境を無視せずに"居る"ことで"地面に影が落ちている"のが見えたからではないか。
 そういった意味でも、俳優たちの周りだけでミニマムに空間が立ち上がる今回の演出方法は、この環境との相性が非常によかった。THEATRE E9 KYOTOでは照明の力もありそれぞれの空間になっていたが、ストレンジシード静岡ではそれぞれの身体になっているように見えたのだ。

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(左:三田村啓示 右:松田早穂  / 撮影:ストレンジシード静岡2021)

 結果的に、全く違う場所・環境での上演を見比べられたのは非常に良い観劇体験だった。やはり闇金ウシジマくんとPUIPUIモルカーくらい印象の違う作品になっていたが、作品の本質はぶれずにそこにあった。作品の持つ振り幅の大きさは、今後の可能性も秘めている。
 今後何度も再演することで柔軟さや俳優の居方はどんどん変わっていくだろうが、個人的にはぜひ劇場以外の変な場所で上演し続けてほしい。違う上演地でどうなる(どうなってしまう)のか、非常に楽しみだ。

執筆:鳥公園アソシエイトアーティスト 三浦雨林

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