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『abさんご』和田ながらチーム・ワークインプログレス観劇レポート|蜂巣もも

 Social Kitchenは10年ほど前に、一度だけ訪れたことがある。その記憶を思い出しながら、烏丸今出川から小道に入ると、寺や古い民家が並ぶ閑静な雰囲気に包まれた。
 Social Kitchenの2階スペースは所々配管や鉄の梁が見える素朴で粗削りな内装で、窓からは木が揺れているのが見える。時代を遡らせ、俗世から隔離されているような感覚だった。時間が古いのか、新しいのかよく分からない。その日天候は崩れがちで、上演中も一時圧倒されるようなどしゃぶりも起こった。それぞれが『abさんご』に溶け込むような空間だった。

『abさんご』和田ながらチーム・ワークインプログレス

 ながらさんの上演では『abさんご』のうちの3シーンが選択された。

 受像者
 草ごろし
 虹のゆくえ

 それぞれのシーンを見る前に観客は『abさんご』を読む時間が与えられる。観客も上演する側も『abさんご』を受け止める体勢をとる。
 その後俳優が来て『abさんご』の言葉を発語する。俳優は発話したと同時に耳を澄ますような集中力が持たれ、感化され観客もしんと染み入る。
 何を試みていたか明示されない部分も多かったが、草ごろしのシーンで携帯電話のカメラ機能を使い、様々な角度から床面を撮影しながら発語していた。
 それが大変面白く感じたので、下記に記したい。


 舞台上の俳優の身体は、場面やシチュエーションによって性質が変容する。
 同じ作業を与えられ動き続ける機械的な拘束を受けた身体や、景色と空気を吸い込んでほっと息をつきそれに伴った伸びやかな身体など、多種多様だが、それは見ている者にも影響が及ぶ。

カメラを手にし、「草ごろし」のシーンを行っている金子仁司さん

<身体>
 中盤の草ごろしのシーンで俳優が携帯を手にして、主にSocial Kitchen内を映像に取り始めたとき、身体が携帯のカメラを中心とした「うつす」行為を遂行するための身体に変容した。
 映像の先がどうなっているか全て見る必要はない。
 携帯画面に何かが写っていることが少しでも見えると、見ている私たちもカメラを前提とした思考に変容する。YouTubeを見ているときやカメラを撮る時の考え方、視覚、理解へと。
 カメラを持つ手は、撮るための機能的な身体になる。カメラとの距離が遠くなった身体ほど、名のない異物、物体となっていく。俳優も心なしか捻るような動きを伴っていたように思える。

<発語>
 ここで聞こえてくる『abさんご』の言葉は、部分としての意味を離脱し、より大きなブロックとして作用し始める。シーン全体の匂いや暗さが動き出したようだった。

 草ごろしのシーンは描かれる物語以上に、妙な暗さがある場面だ。和歌や短歌で「草の原」と使われる際は「草深い墓」を意味するが、実際これに関係があるのかは分からない。

<観客の視点>
 後から考えてみると、前述したカメラの思考、理解速度は早いもので、『abさんご』の言葉を認知するよりも先行して知覚された。
 『abさんご』の言葉にある、独特の形容(枕詞のようなもの、言い回し)に囚われず俯瞰する姿勢となった。
 その後、携帯のカメラを使った時間が終わり、カメラを手放した俳優が発語を継続するが、見ている者にとっては、先ほどの先行する知覚の仕掛けは無くなるので、言葉を理解する比重が強くなり、囚われるようになる。
 俳優が言葉のために動かされているようにも見えた。ここはどう見ていいのか迷った。

 実際に稽古場で使われた創作のための言語も、カメラを通して何らか影響を受けている可能性があるので、それはながらさんのレポートや次の試みを待ちたいと思う。

上演を見終わってから書いたメモ

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