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『私の知らない、あなたの声』観劇レポート|蜂巣もも

 THEATRE E9 KYOTO、ストレンジシード静岡の二箇所で和田ながらさん演出の『私の知らない、あなたの声』を拝見した。和田さんは学生時代から知り合いであり、今までに作品を何度か見てきたものの、西尾戯曲を演出したものを見ることが叶わなかったためとても重要な時間だった。
 重要な中には、いくつかの戸惑いともやもやしたものが生まれた。
 私がこの一年、うつ病とどう付き合うか悩み、過ごしてきたことが『私の知らない、あなたの声』の演出方針と大きく立場を違えたのかもしれないと考えている。
 二箇所での上演を見た後、戯曲を改めて辿ると正反対の主張が見えてきたため、非常に面白く、なるべく言語化していこうと思う。

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<戯曲冒頭引用 前段と後段の芽生え>

一人
   どうしたらいいんだろう。
   今、こころに最初にひらめくことを、やってみる。
明日、琵琶湖に行こう。
   自分の声を、久しぶりに聞いた。
明日、琵琶湖に、行く?
   明日琵琶湖に行く。

行こう。
   それには何が要る?
友達。

   ともだち……。
友達と、琵琶湖に行く。
   〈口を開けたり閉じたり動かす。〉
あー。あういあういやあー。

 台本の前段と後段に分けられた言葉。
 本来であれば前段は役名やセリフが入る場所、後段はト書き(戯曲のなかでセリフ以外の、登場人物の動作や行動を指示する部分のこと)が入る場所である。

 私はこの形態を読んで、人物の中にいる、何も知らない子どものような言葉(前段)と、世の中のルールや苦しみを知った不自由な大人の存在/客観視点(後段)が、やさしく手を伸ばし合い、歩み始めているようだと感じた。
 また、後段はよく読むと冷静なようでいて、不器用で弱い。前段後段どちらが優位でもない。どちらかだけでは動けなくなった心や身体を許して、自分自身をいかに愛せるかという問いのように感じた。
 それぞれは、独立したものではなく、それぞれが存在するゆえに進行していく。

 上演では、「前段/後段」を一貫した演出の態度として扱っていた。胴体をほとんどブラさず、顔(表情)と、腕・手でそれぞれの状況を表す。胴体がほとんど動かないため、人物の表情は異化される。
 胴体の動かない静けさが劇の基調となり、車の運転/ハンドルの動くスムーズさや、物を食べる瞬間の不器用さが妙に際立つ、質感ある時間だった。
 ただ私は、人物の異化による、癖の誇張がどうにも気になっている。それは後半にかけてよりドライブしていくので、次に進めてみたい。

<余談①>

 作品の価値とは何で測られるのだろうか。
 多くのアート・演劇作品では、人間や社会の真髄を見つめ、優れた問題提起を行うことが価値とされることがよくある。アーティストはその問題を清く正しく、冷静に見つめることを必要とされる。けれど、私にはそれが安全圏内に落ち着いた、なんともいやらしい存在のように思う。
 ストレンジシード静岡ではそのことをずっと考えながらいくつかの作品を見ていた。中には大層うまく、観客に教育的な議題を考えさせる作品もあったが、見ていて疲れてしまった。
 作品という形で生きる命題が消費される。いつしか、見る者の解釈も使い古され、消費されていくのではないか。アーティストはいつまで客観視点を気取るのだろう?

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ストレンジシード静岡で村上慧さんの『清掃員たち』に参加する蜂巣

<二段落目引用>

二人
   〈運転席に岩田。後部座席に平井。〉
岩 レンタカーって意外といいね。
平 あ、そう?
岩 初めて借りた。
平 そうなんだ。
岩 うん。
平 運転しやすい?
岩 ん? そうだね。まあ普通。
平 あ、や、つまり、もっと運転しにくいとかって思ってた、てこと?
岩 ……ああ。どうかな?
平 ……いや、あのつまり、レンタカーって意外といいねってさっき、言ってたのはどういう意味かっていう。
岩 あー。え、なんだろう、どういう意味で言ったかな。

  ……間違えた。

岩 けっこう簡単に借りられるんだなと、思ったかな。
平 あー。

   失敗した。

 前述の「一人」のシーンでは「前段/後段」の慎重なダイアローグが展開されたが、この「二人」のシーンでは、もう一人他者がやってきてしまう。
 中心人物である平井に焦点を当てれば、「後段(社会的なふるまい)」が台詞となって押し出されてきたような状況で、「前段(素朴な子ども)」はト書きにわずかに現れ、硬くなったように出てこない。結果的に「前段」は冷たい客観視点となる。

 和田さんの上演では、前述した人物の異化/客観視点の扱いへの態度はシーンを越えても一貫していて、他者が現れることで、より大きく作用していた。
 京都と静岡、劇場と屋外、と全く違った性質の環境でもあったが、基本的な枠組み、表出する俳優の作業も変わらなかったと思う。
 それらは非常にうまく立ち上げられていたため、客観視点は観客にしっかりと伝播し、度々笑いが起きていた。
 けれど私は一人の観客として、見ていて苦しくなった。多くの観客が笑う力学に、内心抵抗しながら見ることになった。

 「前段/後段」に通じる「弱さ」は観客の手にも負えないものなのではないか。


<余談②>

愛-bw

 愛ってもしかすると、存在であって、主体的に行うことの出来ないものなのではないかなぁ。愛したい、愛されたいと思うが、すぐに手に入るようなものではないもの。ただそこに存在(人、動物、植物も)があると、発生するものが大事な気がする。
 周囲の変容が分かりやすい赤ちゃんのみならず、大人も含めた人間がひとり居るだけで周囲の空気は変わるし、そばにいる者も変容していく。存在は恵みのようなもの?

<三段落目引用>

二人/二人
   〈平井がテーブルで一人、食事をしている。〉
   富 ピンポーン。
   平 え?
   平 誰ですか?
   富 わたし、あきらさんと生前、親しくさせていただいて。
   平 ああ、あきらの……。
   富 富永と申します。
   平 トミナガさん……。どうも、わざわざ。
   富 お会いしたかったんです。
   平 え?
   富 あきらさんによくお話を伺っていて。どんな方だろうと思ってました。
   平 ……ああ。

岩 すごい並んでたー。
平 え?
岩 あ、でも先食べててくれてよかった。
平 あ、ごめん。
岩 いいのいいの。そう言っとけばよかったーと思ってたから。オムライス?
平 ああ、うん。
岩 美味しそう。
平 いや、あんまり。
岩 え? そうなんだ。
岩 いただきまーす。
   〈富永、平井の隣に座る。〉
平 友達って、どのくらいのことを話すもの?
岩 え?

 「二人」のシーンに割って入るように、「二人/二人」のシーンが始まる。新たな登場人物「富永」が介入する。富永は平井のパートナーの恋人だったという。
 今まで平井という人物を中心にしながら、最初の他者 岩田に対し「前段/後段」と視点が分かれていたものが、新たな他者によって二人の客観は繋がり、場の緊張感はふっと軽くなる。
 パートナーに何かあった過去(浮気?不倫?)についてともに話すことで、二人の興味は引かれ合い「前段/後段」の垣根を超える。

<余談③>

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 オムライスは卵とチキンライスが、ケチャップなどのソースによって繋がって一つの料理となっているが、そもそも本当にすべての味が混ざっておいしいのだろうか?どの味も認識できてる?咀嚼して、結局ソースの味を楽しんでいるのでは?
 あるいは、舌や歯に当たるものがその時々で変わって、楽しみが分離して、切り替わっていくのか…
 ソース
 卵&ソース
 チキンライス
 チキンライス&ソース……
本当はオムライス、という複数形の料理なのかな。


<終盤/五段落目>

一人/一人
   〈平井、映画を見ている富永の隣に座る。〉
   〈富永、平井が隣に座るので、立つ。〉

溺れたとき人は呼吸をするだけで精一杯で、手を振って助けを呼ぶことも、もちろん足を動かして泳ぐこともできません。

大声を出して手足をバタバタするのは映画です。何もせず、何もできず、溺れている事実を理解できず、硬直しているのが現実です。何もしない身体は、何もしない分、あっという間に沈みます。

真っ直ぐの棒立ちで、わたしは彼女を待っていた。

 平井と岩田が別れた後、平井と富永が残る。映画『髪結いの亭主』を見ながら、それぞれが隣にいることだけを理解して終わっていく。
 『髪結いの亭主』でもパートナーとの自殺という別れが描かれるが、その状況はとても美しい。でもそれは美しすぎではないのかと、荘厳な強さでこちらに問いかけてくる。「前段/後段」どちらにも当てはまらない俯瞰の言葉。批評。神のようにも覗き込んでくるようだ。
 この五段落目はモノローグやト書き(前段/後段)とはまた違う強さを持って語られる。

 富永という謎の人物も気になるが、それと表裏一体にある、平井の「前段/後段」で入れ替わり表れる弱さとは、なんだったのか。
 戯曲が各シーンで扱ってきた「弱さ」は、「死」に対しての「生」として重要な意味を持ち始めるとしたら?
 「弱さ」と、存在するだけの「愛」と、終盤の映画批評に匂う、「神/信仰」「生」のような強いものを射程に含めた、叩かれても壊されても終わらない問いについて。

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撮影:中谷利明

 和田さんの上演では、富永登場以降「人物の表情の異化/客観視点の扱い」は保留のままのように見受けられた。
 会場の笑い声は宙に浮いたまま、富永という人物の謎とともに終わったように思う。
 それは戯曲自体にも要因があるかもしれない。
 よく分からない「弱さ」に対して、上演は理解しやすかったように思うが、「弱さ」については、なぜかあまり寛容ではないように受け止めることとなった。

 それがどうしても、私は気になって仕方がない。

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