小説を書きの便秘もち
小説に対するこだわりを捨てたら楽になった。という投稿を見て「ああ。そうだよな。私にもそういうのがあったな。」と同調するところが多かった。
売れる小説とは、その時代の空気との融和もしくは対立が必ずある。個人が書いたものであったとしても、時代との関係でうまく噛み合えば絶賛される。私も実は小説を書いている。ただし売れるかどうかというのは後回しにしている。
だいたい小説家が小説を書いているかと言うと実際?なところがおおい。食っていくためにと、テレビのコメンテーターになっていたり、小説講座や大学の文学部の特任教授なとになって副業でどうにか日常を支えている人が多いのではないだろうか。つまり生きているプロの小説家はプロとしての自分を成立させる(=日常生活を送る)ためといって、副業をメインとしているような感じがしてならない。
小説家になろうとしてなれない人というのは、おそらく自分の中に添削者がいて、そいつが書くたびにひょっこりと顔を出してダメ出しをすることが多い。私もそうだった。「こいつどっかにいってくれないかな」と思うのだが染み付いてしまっているのだ。もっとも、こいつがいるおかげで現実世界に地に足がつく日々を送っているのもこれまた事実である。
じゃあ小説を書くとはどういうことなのだろうか。
私はブランショの曲解な文芸批評に耳を傾ける。彼は残すのではなく、消尽させるためにテキストはあるのだという。バタイユが「暴力」と位置づけたことと絡み合わせると、小説には筋が通った矛盾を残す義務があると考える。
つまり登場人物でも自然でも、当然としていたものに矛盾した何かを衝突させて、そこで人物の心の動き、きしみを小説家はあぶり出す。この典型的な例が森鴎外である。鴎外の作品には世の常識にある要素をぶちあてて、登場人物を困惑させる。舞姫や高瀬舟を読むと、その世界に読者が入らざるを得ない空間が確保されている。「さてあなたならどう考える?」というような考えさせる余白を作る。その余白を削除すると、読者は読んでいくうちに益々蠱惑してしまい、その世界をぶち破って息をしたいという破壊願望がでてくる。これが「暴力」の定義であって、ブランショはそれをさらに書き手の側に立って「作品を残した瞬間に、テキストは解放へと向かい、作り立てた作者は死ぬのだ。」と述べている。
となれば、小説家が作品を書くということは、己の中にある活性化したどこかやるせない気持ちによって筆を進ませ。すっきりするという便秘状態からの解放がそもそもの原動力なのではないかと思う。「自分の作品読んでください!」とアピールする人がいるが、宿便を買ってくださいという人間はどこにもいない。
だから本当の小説家というのは書いたら振り返らないはずだ。リマスタリング版が出ないのも、書いた後にまた新しい便が宿っているからそれを出すために書いている。
私はそう思っている。