伴名練『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)を読んで

*Twitterの下書きに溜めた思いつきが下書きから溢れたため、こちらに投稿した。あまりまとまってはいない。最後の方は個人的な感傷しかない。あらかじめご留意ください。読みごたえのある論が読みたい既読者は「この世界の中で、この世界を超えて――伴名練とSF的想像力の帰趨 - “文学少女”と名前のない著者」を読みに行くべき。
 以下にネタバレはないはず。

1. 通して読んだ感想
 こうして短編集でまとめて一気に読むと、世界や世の趨勢のような大きなものに対する、伴名作品の登場人物たちの対抗手段は「仕組みを理解してフェアに利用すること」なのだなと思った。舞台設定のルールは逸脱しない。そういえば伴名練は、改変世界、SF的アイディアによって変わった社会を書くのを得意としている作家だった。
 この『なめらかな世界と、その敵』がどんな本かと聞かれたら「SFが大好きな、優秀なSF職人の仕事が見られます。研鑽の成果が陳列されています」と答えるかもしれない。
 本書には、並行宇宙(多元世界)、脳(自由意思)、時間SFなどの定番料理が収められている。しかし、どの作品がどのテーマか、ここではあえて書かない。なぜなら冒頭でどの料理が出されるのか気づくところも、伴名作品の楽しみだと思うからだ。メニューが判明した後、読者は定番メニューがどう料理されたか、満を持して堪能することになる。
 ただし、伴名さんのこだわりは、ジャンルSFの範疇だけではなく、作劇・構成や仕掛け、つまりエンターテイメント小説としての完成度にも注がれている。偏執的なもてなしの良さだ。だから、きっと初めてその料理を食べる人にも勧められる。接客や店内がちゃんとしていると広く勧めやすい。
 本書の収録作に対して、しいて懸念を挙げるならば(1)一部のキャラクターの口調やノリが風化しないか (2)この味が気に入る層の範囲はどこまで広いのかという点である。外国語に翻訳すると検証できるのではないかと思うので、ぜひ試してみていただきたい。

2. 作者が沼の中から手招きしている件
 私が「ひかりより速く、ゆるやかに」を読んで受けた印象は、よく考えられた罠というものだった。ひときわ懇切丁寧に、沼のほとりに来た人を引きずりこむべく作られている。伴名沼か、日本SF沼か、SF沼か、小説沼か、それ以外の沼かはわからない。 本作に限らず、伴名さんが沼の魅力を煮詰めて共有するのが上手いのは確かだ。
 "沼"が一番直接的に描かれているのは、やはり「ゼロ年代の臨界点」だろう。ゼロ年代(ただし20世紀初頭)を舞台に、架空のSF小説ブームを緻密に描いた物語だ。ときどきユーモアがある。
 冒頭、架空のSF作家3名の性格の違いを示す逸話は、まず第一に読者にキャラを即理解させるテクニックとして機能している。しかし私はふと、石川喬司による日本SF界のたとえを思い出した。星新一や矢野徹が惑星へのルートを開拓し、筒井が口笛を吹きながらスポーツカーで乗りこんでくるあれだ。キャラクタや作家として成したことをパッと提示している点で通じるところがないだろうか。
 つまり「ゼロ年代の臨界点」は漫画界でいえば、トキワ荘や『燃えよペン』的な盛り上がりをSF小説でやっている。しかし実在作家をモデルにせず、まったく架空の「同じとき同じ場所で、多彩な複数人が競うように書き、ジャンルが盛り上がる」話にすることで、内輪受けにならずに普遍的に書いている。
(野暮な杞憂を言えば、SFというカテゴリとその内側を形成している人間に警戒心がある読者はこの作品に拒絶反応を示すかもしれない。別にジャンル自体を賞揚しているわけではないし、どんなジャンルでもありそうなトラブルも描写しているが、しかし。)
 
3. 終わりに
 本書を読んで、興奮と共に作者の更なる活躍や、より長い作品を期待する読者は多いだろう。実際まだまだこんなもので留まらないのでは、と思わせるものがある。周囲から要求されるレベルが上がったり、新作を待望されてご本人も大変だろうと思うが、無理せずぼちぼちやっていってほしい。時間のかかる彫刻でもいいので。
 「ゼロ年代の臨界点」の初出は京都大学SF・幻想文学研究会の2010年の夏コミ新刊だった会誌だ。当時、私は「わざわざ自分が褒めるまでもなくこれは今後話題になるでしょう」とツイートした。あれからちょうど9年経った。本作は年間SF傑作選にも再録されたし、星雲賞参考候補作にもなったが、それでもまだ受け取っていなかったーー受けとるべき読者はたくさんいるはずだ。出版によってその機会が広がったことを改めて祝いたい。
 そして、もう1つ祝いたいことがある。今まで伴名練のノンフィクションが商業媒体に載る機会はなかったのではないだろうか。しかし、伴名さんはもともと大学在学中から創作以外もやっていた人である。「あとがきにかえて」やS-Fマガジン2019年10月号に掲載される予定の「選考文――評者・神林長平の見出した才能」など、氏のノンフィクションも読まれる機会が増えたのはとても喜ばしい。
 いかに学生時代アクティブな人でも、社会に出てからそれを維持するのは難しい。あれもこれも諦めずに続けていることに何より感服している。

 おまけ:しかし伴名練だけではなく、彼がいた頃の京都大学SF・幻想文学研究会は、人数こそ少ないものの強豪ぞろいだった(本書のあとがき参照) 創作だけではなくノンフィクション等も強かった。
 さらに京大だけではなく、当時の角川ホラー小説大賞や創元SF短編賞の一次や二次には、私の少し上下の世代の、さまざまな大学サークル出身のさまざまな人がいた。大学サークル出身ではない人ももちろん沢山いた。繰り返すが、創作だけが活動ではない。イベントを運営したり、イベントでトークしたり、ノンフィクションを執筆する人たちもいた。しばらく活動の様子が見られなくなった人たちもいるが長い人生、また戻ってくることもあるかもしれない。里がにぎわっていれば帰ってくる人もいるだろう。

 あのころ、里が多様で豊穣なさまを見なければ、私もこれまでSFにまつわる活動を続けてこれなかった。自分が大した活動ができていないことに劣等感はあるが、一方でたくさんの人がちょっとずつなにかする以外、コミュニティを持続するのは難しいと感じている。作品を買うのも、本の感想を書くのも「なにか」である。引き続き、なにかしていきましょう、皆さん?

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