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尊敬してやまないあの人を思い出して

大事なあの人との別れ

彼との死別はもう数年前のことだが、まだまだ消化しきれていない。
数年では処理しきれないくらい、彼との思い出はたくさんありすぎる。

彼は私がこれまでに出会った中で最も敬愛する変態だ。
私の変態性のほとんどは彼の影響である。

たくさんたくさん教わったことがあるけれど、まだまだ足らない。
もっと教わりたいことがたくさんあった。

亡くなってからその偉大さに気付かされることがたくさんあった。
いつになったら受け入れられるかわからない。
一生抱えたままかもしれない。

普段からメイクしない君が薄化粧した朝
始まりと終わりの狭間で
忘れぬ約束した


(中略)

花束を君に贈ろう
言いたいこと 言いたいこと
きっと山ほどあるけど
神様しか知らないまま
今日は贈ろう 涙色の花束を君に

両手でも抱えきれない
眩い風景の数々をありがとう

   (宇多田ヒカルさんの「花束を君に」より)

彼とは、祖父のことである。
変な人ではあったけれど尊敬してやまない人だ。

まずはこの歌を、彼に捧げたい。

あの日は突如やってきた

老衰でもう長くはないとは分かっていたものの夏まではもちそう、との話であった。
ところが6月のある夜、祖父が急変したことを東京にいた私は母からの電話で知る。
夜の9時ごろだったかな……

彼の意識はすでに朦朧としていて、電話での私の声かけは届いているのか定かではなかった。
ただ、ゼーゼーという苦しそうな声だけが聞こえた。

「おじいちゃん、私だよ! わかる? おじいちゃん……!」

電話口で何度も何度も呼びかけた。
彼にはもう、答える力は残っていないのはわかっているのに、それでも。

夜の9時に東京から私の実家に帰る最速の手段は翌朝1番、6時台の羽田発の飛行機に乗ること。
生きている彼にはもう会えないかもしれないと思いながら、震える手で飛行機と空港までのタクシーの予約を済ませて、やるせなさを抱えて床についた。

なんとかして間に合いたい

眠ったような眠ってないような不安な夜を過ごして、早朝4時に東京の自宅を出発した。

早朝4時。6月だけどまだ薄暗かった。
実家からの連絡はまだない。
大丈夫、まだ彼は生きている。

始発電車なんてない時間帯。
ケチだから滅多に乗らないタクシーに、間に合うことを祈りながら、でも苦しんでいる祖父の安らかな死を祈りながら、乗り込んだ。

羽田空港には案外早く到着。
空港のラウンジ(クレカのサービスでタダで入れる! コーヒー飲み放題──こんな時でもケチなんだよな……)に入り、もどかしい思いで飛行機の出発時間を今か今かと待つ。

「今、空港につきました。家に着くのは9時ごろになります。じいちゃんの様子は?」

母にLINEするも既読はつかず……
その未読から、きっとバタバタしているのだろうと理解した。

朝5時。
まだ早いけれどそろそろ搭乗手続きが始まらないかなとソワソワしながらスマホの時計を気にしている私。
ラウンジのコーヒーとパンを震える手でかじる。

どうかどうか間に合いますように。
大事な大事な人の死に目に会えますように。

そう強く祈りながら。

届かなかった願い

そんな中、父からたった一言のLINE。

なくなりました、と。

その瞬間、今までの祖父との思い出がブワーっと走馬灯のように思い出された。

行儀作法に厳しかった彼。

泥だらけで庭仕事をしていた彼。

お人好しで騙されて借金をした彼。

酔っ払って楽しく笑う祖父。

私の大学合格を文字通り跳び上がって喜んだ彼。

のちの夫となる人物を初めて連れて行ったときに一目で気に入り頼むからコイツと結婚してやってくれと言った彼。

帰省するたびに
「ワシはもういつ死ぬか分からん、もし生きとったらまた会おうな」
というのが彼の口癖だった。

何回あの言葉を聞いただろうか。

「そんなこと言って、じいちゃん。どうせまだ生きとるだら、また会えるよ」
そう笑って上京するのがいつものパターン。

最後に会ったのは亡くなる2か月前だった。
だいぶ弱ってはいたけれど暖かい春の日ざしの中、私と一緒に何とか外に出た。

その時なんとなく、普段は撮らない彼の写真を撮った。
それが私が残した最後の彼の姿になった。

麦わら帽子を被ってクタクタの部屋着を着て、ヒゲはボサボサ。
ヨロヨロなのに草取りをして、立ち上がれなくなった彼を笑って持ち上げたなぁ。

あのとき上京する際も彼はいつものように「もし生きとったらまた会おうな」と言い握手した。
私もいつものように「どうせまた生きとるだら、何回言うんや!」と笑った。

彼の思いのほか痩せ細った冷たい手を握って、いつもよりちょっぴり不安な気持ちで、でもきっとお盆にはまた会えると笑顔で実家を出た。

そんな思い出が、羽田空港のラウンジでブワーと湧き上がった。
夫に黙って父からのLINEを見せた。
夫がポツリと「間に合わなかったな」と言った。
その瞬間、私は人目も気にせずボロボロと涙をこぼした。

この世とあの世を分ける箱

その後、どうやって飛行機とバスを乗り継ぎ実家に向かったのか記憶がない。
ただただ泣いていたのだと思う。

実家に着いたのはやっぱり9時だった。
県外にいる親族のなかでは私が一番遠くにいたのに、一番早く着いた。
一緒に暮らしていた家族と、近隣に住む親戚しか実家にはまだ集まっていなかった。
続々と親戚が県外からこちらに向かっていた。

「アンタ遠いのに早かったね」と祖母が言った。

そんなに早く着いたのに、彼はもう棺桶の中にいた。
一張羅を着せてもらって、ドライアイスで冷やされていた。

私は彼の冷たくなった顔を何度も触った。
「間に合わんかったなぁ、間に合わなかったなぁ、東京は遠いなぁ、遠いなぁ」
そう何度も言いながら。

うつ病への階段の1段目

あの後から私はおかしくなったのだと思う。
大事な人の死に目に会えないような遠い東京で何のために私は働いているのだろう、と。

その後、立て続けに大事なものを失った。
もし私があのときああしていれば、と後悔ばかりがつのった。
後悔しても仕方がないことで自分を責めた。
生きている意味を見失いかけた。

そうして私はだんだんとうつ病への階段を昇っていったんだ。
そう、祖父の死が私のうつ病への最初の一歩。
私の東京アレルギーの最初の発作。

人は必ず死ぬ。
それはわかっていても、やっぱり相当に重いできごとなのだ。

死に目に会いたかったなんて遺された者のエゴだ。
それはわかっていても、やっぱり相当に重いできごとなのだ。




じいちゃん、私は這いつくばって今日も生きとるよ。
まず健康っていっつも言っとったけん、ごはんも頑張って食べとるよ。
ばあちゃんは元気にしとる。
相変わらず口は達者でなぁ。
かなわんに。

うちではまんだ毎日のようにじいちゃんの話をしとる。
いろいろ悪口も言っとるでぇ。
あんまり毎日のことだけん、まだどっかで生きとんなるような気がするわ。

ああ、じいちゃんが大事にしとった庭は、
皆で一生懸命手入れしとるけん、安心してなぁ。
最後の春、一緒に散歩したなぁ。
あのときいつものように、わしゃもうよぅ生きとらんけどって別れたけどまたどうせ会えるにと思っとった。
夏までもたんかったなぁ。

ほんに、じいちゃんを思い出さん日は一日もない。
ありがとなぁ。
あと数時間生きとってくれたら良かったに、ほんに意地悪だけ。

でもえらかったよなぁ。
ようがんばったなぁ。
わがまま言ってごめんなぁ。
きっと元気になるけん、見とってぇよ。

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