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感情と明晰夢

さて これは前回の「個人時間軸」の続きであり 最近自分が着目している
こだわりのMyBoomテーマでもある 「感情」というものについての考察でもある

それらは 自分の場合、そっくりそのまま明晰夢や平行宇宙というもにもつながり そして死後の世界の考察でもある

最近のスピリチャルではどちらかというと この感情というものは否定されがちだ まぁあたりまえにそうなるだろう
そもそも 仏教にしろヨーガにしたところで 感情というもの 邪魔でこそあれ それが 悟りや解脱のコンセプトからは虐げられる運命にある
それはいわば当然であり 怒りの感情がさく裂しているときに 冷静さが勝負になる 瞑想やスピの「高次元」を語ることはまず無理であるし そもそも感情や 心の癖を排除するところから これら宗教やスピははじまるのであり それは最も健善なことだ あたりまえだ

よってこれは 自分独流の発想になるのかもしれないし あるいは禅の高僧で同じことをいっている人はいるかもしれないが
昔から瞑想を深めるたびに思うことが 感情というものの存在価値だ
それは いつも意識のどこかにある呼びかけでり 予感だ

「おぃおぃ 感情を馬鹿にするなよ・・・ 感情をわすれたら駄目だぜ・・・」
自分には、このような 意識の中の児玉がどこかに響いている
そして たまに分析もする ほんと詳細にヨガの経典や原始仏典など分析すると 感情それそのものを駄目だとなんて 誰もいっていないと
欲望とてそうだ 欲望とて 誰もそれを単体で悪いとなどいっていない
ヨガの聖者しかり 釈迦しかり おわかりだろうか?
それの使い方を間違えるなという 認識論はといているが 感情それそのものを否定など 誰もしていないのだ ただ瞑想世界の意識集中という 方法論的プロセスにおいて ちょいと一旦脇におきましょう という意味であり誰も 感情なるものを否定してはいない それは事実だ

前回の記事「個人時間軸」の絵柄に使ったのは 京都の画像だと思ったからだ そして 最初は 昔みた自分が小学時代亡くなった お爺さんと過去に京都にいったときの想い出をつい数年前 「過去の明晰再生夢」としてみたことを話そうと思いつつ 書くタイミングを逃したのだが・・・

その 今からもう45年程前に亡くなった 死んだお爺さんと京都にいって入った うな丼の店での 明晰再生夢 には数年前に驚いた
もう40年以上前の 完全に忘れていた記憶が まるで今体験しているかのごとく鮮明に 追体験されたのだ

それは どんな気持ちでその うな丼の店に入ったのか? あるいは天候がどうであったのか? その店の空気観がどうだったか? 匂いやその時の体の生理的状態 その店での お爺さんとの会話や表情
全ての全てが詳細に 再体験された夢だった
その時 その うな丼の店のテレビでどんな番組をやっていたのか? 天候がにわか雨で 傘置き場に迷ったとか おしっこがしたいのを我慢しているとか それは 日常の現実の詳細と何も変わらない細かな その時の無意識に至るまで追体験した夢だった
しかも 50歳を超えた 今より遥かに 子供の頃は 情緒や情観を感じていたことまで悟ることができた

これは、この体験だけを別にブログでUPするべき内容であり いずれやるかもしれない
この体験とは何だったのか? その後いろいろ考え続けた ポイントは この種の 過去の追体験夢は、その対象の年齢が若ければ若いほど その時思い出す臨場感が詳細であり 当時の無意識の中まで思い出すのだ その時の1瞬の雑念さえも!
つまり これはそっくりそのまま ナシーム・ハラメインが主張している ロシア人学者が発見した ファントムDNAの存在の証明を意味しているのかもしれない
時と場合により 空間にある人の意識が 宇宙の実相に刻まれたファントムホログラムを読み取ってみせているのだろう

そして その時の自分の体験は 宇宙の実相と通じて 今この場で 明晰夢の鮮明性と感情 というテーマでひとつの考察を提示している

それは前回の記事 個人時間軸で書いた 悟りや解脱とは程遠い 若い時の
感情バリバリだった頃のほうが 明晰夢は鮮明であり そしてそれにより宇宙が実相をいろいろ垣間見せてくれた
それは 最近の瞑想と比べても 若い時の明晰夢から学べる量には太刀打ちできない とは何を意味しているか?
という課題がでてくる

そこを考えるとき 感情 というものの存在価値や 普遍的価値に着目せざるおえなくなる そしてそれは 最近の瞑想でも 薄っすらとではあるが感じていたことだ
感情や情観、またその深みや厚みに 何があるのか 何に私たちは共感し人生の肥やしにするのか?

・・・例えば
レイモンド・チャンドラー原作 プレイバック にでてくる 私立探偵フィリップ・マーロウ の名言

『タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格がない』

自分は即座に若い頃読んだチャンドラーの小説のこれを思い出した それはそっくりそのまま 変換引用すると

「賢く立ち回らなければ生きていけない。感情がなくては生きている値打ちがない」

これにこめられているのは 何か? それは、このキザなセリフを合理的な理屈で割り切れ といっているのではなく こういったセリフを生み出す 文学の根底にある 想い である 人類全般の無意識にある 想い は このキザなセリフに 何を期待しているのか? そこを問う必要がある

ほとばしる感情は時として解脱世界などより遥かに貴重な時がある

それがわかるとき 自分がツィッターやブログなどでしきりに提唱している
絶対実在からの パラレルワールドさえ生み出す 実在の意図が 薄っすらとわかるのだ

そう それは 全宇宙ストーリー発生メカニズム とでもいうべき現象宇宙の深淵な意図が読み取れるのだ


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