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演繹思考の薦め

今回は哲学的考察とは何か?でもご紹介した演繹思考と帰納思考についてさらに掘り下げたいと思います。

科学全盛の時代、私たちが教育で教え込まれるのはもっぱら帰納思考です。
私たちが使い慣れている言説はもっぱら帰納的です。

帰納的とは仮説的であるということです。従って、想定外に対する耐性が弱いきらいがあります。

当然のように想定外というのは常につきまとうものです。その状況に直面した時にどう対処するか?

ここで鍵になるのはどういう価値の全体性を持っているかです。そしてここに演繹思考が司っています。

今回はこの演繹思考、すなわち強者の思考法について書いていきます。

私たちは経験主義に毒されている

資本主義の世界では、「体験」そのものが商品になってきています。これは特に先進国で見られる傾向です。

体験型商品というのはこの世の中にたくさんあります。例えば、映画館でも3Dがあれば4Dがありますが、そうやって体験を軸にカテゴリ分けすることで消費を促しています。

「体験」が商品であることの強みはやはりその未知数性です。何が起きるか分からない、実際そこに行ってみないと分からない。臨場感と熱量の渦に巻き込まれたい。

その期待の裏にはルーティン化された日常から踏み外したいという欲求があります。安定を求めると同時に非日常性を求める。

予定調和外の世界に生きることへの欲望は、人間の脳に根ざしているものです。しかし、この世の中はそういった人間のアプリオリな特性を巧みに誘導する人たちもいます。

いわゆるこの世界の仕掛け人、演繹的世界観を構築し、その枠の中で「体験」を生産して富を創出する人、つまり強者たちのことです。

強者にとってこの世界は無機質で茫洋

この世界の仕掛け人、つまり強者の世界観は演繹的です。演繹的とはつまりこの世界のアプリオリ知を元にして演繹的に世界観を組みたてているということです。

そして、この世界観の中で経験知を元にして組みたて仮説を立てて、さまざまな検証をしていきます。この検証がいわゆる「仕掛け」ということです。

この仕掛けはあくまでも数学的なものです。アプリオリな事実と事実を掛け合わせて、そこから仮説を組みたてる。もし仮説通りにいかなければ、すなわち掛け合わせた前提以外に何かが抜け落ちていたことを意味する。

その抜け落ちた知をさらに探索する。見つかったらさらに検証にかけて仮説を組みたてる。実験する。それは低温に保たれた実験室で淡々とワークをするようなものです。

そこに驚きという感情はあまりありません。驚きではなく「やはり」という確信の方が先に来ます。

弱者(帰納的な人)はここで驚きの感情が先に立ちます。なぜそうかと言うと、世界観が構築されていないからです。例えるならテストを受けるにあたって傾向を研究しないまま臨むようなものです。

傾向と対策を練っているテストでは、「こういう問題がでるだろう」と過去のデータから仮定を立てられます。そして実際に想定していた問題が出たら、「やはり」という確信で満たされる。

対して、帰納的な人はこういう世界観がないので、いつでも出たとこ勝負。想定外のことが来たら驚きが先に立ってしまい、応急処置的な対処しかできない。

演繹的な人にとっては、想定外とはつまり何らかの前提が抜けていたことであり、テストが終わったらその抜けていた前提を探しに研究する。

演繹思考とは経験に依拠せずに「〜である」と世界観を構築することです。経験に依拠することなく、つまりは現実世界での実証もしないことです。言い換えれば、経験しなくても分かることを導き出すこと。経験する以前に絶対的であるもののことです。

例でいうなら物理学の法則は経験せずとも私たちが「知っている」類の知識のことです。太陽が昇る方向は経験以前にそこに絶対的に存在します。1+1=2というのが絶対的法則であることを前提にして世界は回っています。

憲法や法律は知る、知らないに関わらず、そこに必ず存在するものです。さらに意識するしない関わらず私たちはそれらに従って生きています。

さらに私たちの存在にまで掘り下げると、人間として生きる上で水と酸素が必要であると知っています。

私たちはこういった世界観をベースにして、考えを発展させていき、発明を生み出していきます。言い換えるなら、こういう演繹思考をベースにして世界観を構築することで、私たちはその中で様々な実験思考をしていくことができるのです。

例えば「万有引力の法則」はアリストテレスの時代から語られているものですが、その証明の仕方は時代によって変遷していきます。が、この知識の変遷の下支えとなっているのは「物体は下に落ちる」ということです。

つまり、これはアプリオリな絶対知であり、ここを疑ってしまっては思考はどこにもいかなくなります。

演繹世界の例

憲法、法律、物理の法則、俳句、詩、哲学、数学、信念

これらに共通しているのは「世界のあるがままの姿」を記述した言説であるということです。

世界はこうであり、それ以上もそれ以下もない。これが演繹で表現される世界であり、ここには人間の感情や思いが介入する余地はありません。

帰納思考とは「〜であろう」と推論すること

帰納思考はつまりは演繹思考の中で構築された世界観の中で細部をつめて考えていくことです。世界というこの巨大な箱の中は、言ってしまえば無限の可能性で溢れています。

そして可能性を探究し実験する思考こそが帰納思考であり、自然科学の原点でもあります。つまり帰納思考とは経験に依拠することであり、現実世界で実証することです。

この帰納思考では仮説を立てて、現実世界との整合性を合わせることを目的とします。

この世界はまだまだ未知の領域がたくさんありますし、経験してみて初めて分かることがたくさんあります。その際には断定することを避け、実験を重ねた上で一番可能性が高いと思われることを見極めていきます。

帰納思考はそういった意味で生きていく上でとても重要な思考法です。

帰納世界の例

経験則、仮説、推測

見て分かる通り、帰納世界では手元にある情報を組み合わせて「〜であろう」という仮定を立てます。

世界はたぶんこうなのだろう、しかし常にそこには反証される可能性もある。もし失敗したのなら、何がそうさせなかったのか探しに行くことが重要だ。

演繹思考とは強者の考え方、帰納思考とは弱者の考え方である

自由と語る時、演繹的な人はルールの中に見出すものだと考えます。対して、帰納的な人はルールの外に見出そうとします。

従って演繹的な人と帰納的な人は、所作や言動にあからさまな違いを生み出すようです。

ちなみに経営者や起業家の人に演繹的な人が多いのは、中長期的なスパンで意志決定をしていることや、やはり自分の信じる世界観を具現化して世の中に問うことを目的にしているからです。

彼/彼女らには信じる世界観があり、その影響をこの世界の及ぼすことが目的でビジネスをしているのですから当然のことです。しかも、それが物理的なものを生み出すのならなおさら。

(対して、インターネットビジネスをしている人は、傾向として自由を好む人が多く、思考も帰納的な人が多いです。)

この業界の性質としてやはり変わるスピードが速いのでそれに対して臨機応変にいかないといけないという信条がそうさせているようにも思います。

無形商材を扱っているのなら後からいつでも変えられる、改善できるという思い、それがより演繹的な思考から遠ざけるのかもしれません。

しかし、これはハッキリ言えますが、帰納的な人は短命に終わる可能性が非常に高いです。というのも戦略性に大儀となるものが欠けているので、一貫性が欠けがちになるからです。

経営とは良い時よりも悪い時にどうするかが重要で、ここで帰納的な人は軸がないので目の前の問題をしのぐことにフォーカスしがちな分、数年後には大きな業績を落としています。

経営的に何が正しくて間違っているのかは、中長期的な視点に立たないとやはり分かってこないものです。そして、この視点に立つには演繹的に世界を鳥瞰することが必要になるということです。

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