見出し画像

千葉妖怪伝説「その十二 ヤマトタケルは一体誰と戦ったのか」

その十二 ヤマトタケルは一体誰と戦ったのか

ヤマトタケルの妖怪退治について今回は述べてみたいと思う。タケルは、本来景行天皇の第二皇子で、正式には小碓皇子と呼称するのが正しい。だが幼少時からタケルは粗暴で、皇位に近い身でありながら自分の兄を殺害するという事件を起こし、父である天皇から疎んじられることとなった。

 厄介払いとばかりに地方勢力の討伐を命じられるが、タケルは武勇にものを言わせ、熊襲、出雲を見事討ちとった。しかし、父は息子に更に東国の平定を命じてしまう。休む間も無いこの非情な処置に、自分は父に愛されてないのではないだろうかと、ヤマトタケルは嘆くが、叔母である倭姫命より、励まされ草薙剣をさずけられる。

 この剣はかつて、スサノオがヤマタノオロチを退治したところ、オロチの体内から出てきたものである。この剣が呼んだのであろうか。タケルはスサノオの因縁を受け継ぐ事になる。この剣は火攻めにあったタケルを救い、タケルを神奈川まで導くことに成功する。

この時オトタチバナを妻にしていたタケルは油断したのであろうか。

「こんな小さい海などひとまたぎよ」と馬鹿にした発言をしてしまう。それが海神の逆鱗にふれた。荒れ狂う海に一行は翻弄され沈没寸前になった時、自らを海神への人柱にするため妻のオトタチバナが身投げをしてしまった。おかげで海は鎮まるが、タケルは最愛の妻を失ってしまうのだ。

 落胆するタケルはしばらく「君去らずや」とつぶやいて海辺に止まったと言われている。それが現在の木更津という地名の元になったらしい。

 だが東国の猛者はタケルに悲しみに打ちひしがれる時間を与えてくれない。千葉の鹿野山麓の鬼泪山には、九頭龍が棲みつき、人々を食らっているという。村長の願いを聞き届けたタケルは、草薙剣を持ち、村人の案内で小川沿いの道を鬼泪山に進入した。タケルは懸命に九頭龍を探すが一向に見つからない。疲れ果てていつしかタケルは眠ってしまった。するとそこに九頭龍が現れ、タケルを一飲みにしてしまったのだ。腹中で意識を取り戻したタケルは龍の腹を裂き、体外に飛び出るとたちまち九本の頭部と九本の尾を切断してしまった。なおこの時流れ出た血が、川を3日3晩染めたので、今でも「血染川」と言われているそうである。

 なお退治された九頭龍の魂は供養されており、「九頭竜権現」として神野寺仁王門に鎮座している。しかし因縁は回るものである。肉親に嫌われた乱暴者のスサノオが、ヤマタノオロチの体内から見つけた草薙剣を、同様に肉親から疎んじられたタケルが受け継ぎ、九頭龍というヤマタノオロチの再来のような怪物を退治する事になるとは…。しかも、この時、一度草薙剣ごと大蛇の体内に飲み込まれているのである。更にこの東国遠征の前に、タケルはイズモタケルというスサノオの末裔的立場にある出雲の豪族を討っているのである。因縁はめぐるものだ。

 しかし、この伝説には奇妙な余話が語られている。鬼泪山に篭って日本武尊と闘ったのは、阿久留王という鬼だという説があるのだ。鬼泪山北麓を流れる染川(血染川)は、鬼の血で3日3晩染まったので「血染川」となったのであって、鬼が泣いて許しを請うたので「鬼泪山」という呼称がついたとする伝承である。いったいどちらの伝承が先なのであろうか。なお阿久留王の墓という祠が江戸期までは実在したとされている。

 いいや驚くのはまだ早い、鬼泪山でヤマトタケルと闘ったのは、でいだく坊、だいだあ法師、デーデッポという巨人であったという伝承もあるのだ。

 となると、一体全体、ヤマトタケルはどんな妖怪と鬼泪山で闘ったのであろうか。まったく奇々怪々である。

ご注意:
上記の記事は、地域情報サイト「まいぷれ」で掲載されていた「千葉妖怪伝説」というコンテンツを転載したものです。記載されている内容は、当時のものですので、現在の情報とは異なる可能性があります。ご了承ください。

https://www.mpchiba.com/articles/323.html

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?