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【小説】 生活の隙間で

 だだっ広い体育館にガコンと重い音が響いた。シューズが床に擦れ、軽快なステップを踏む。静かだった空間に二人の学生が登場した。バスケットボールをつくと、心臓にぎゅっと圧力がかかって気持ちがよい。二人は放課後、誰もいなくなった体育館にこっそり来て、ひたすらシュートの練習をするのが日課になっていた。天井近くの窓から西日が射し、強烈な光がゴールと重なる。ボールはゴールから外れて床に跳ねた。
「42回?」
「いや、今外したから41」
 二人は交互にシュートを連続で入れるというチャレンジに熱狂していた。自己ベストの56回にはいまだ届かないでいる。高野は鋭い日光を受けた目をパチパチと瞬きさせた。まぶたの裏が赤く染まり、点滅する。
「また俺がミスったなあ」
と高野が汗を拭って、谷を見た。彼は涼しい顔をしながら「そういうときもある」とフォローした。高野は、谷のそのような飄々とした態度を気に入っていた。小学生に出会った当時から、いつも少し奥手で引っ込み思案な高野とは対照的に、自分からものを言う一本芯の通った谷は、彼にとって尊敬すべき人間の一人だった。それは高校生になり、同じバスケットボール部の部員として接するときも変わらず、部長に作戦の提案をしたり後輩に指導したりするときの彼は、高野にとってたくましく見えた。そんな谷の隣で学生時代を送ってきた高野もまた、彼のものの言い方を自分なりに少しずつ習得し、生活のハンドルを切ることに慣れていったのだった。
「おまえ、最近シュート打つ直前、体の軸が揺れてると思う。もう少し待ってから打つといい」
「ああ、マジか。サンキュ」
 すらりと伸びた背の高い谷を見上げながら、高野は感謝の笑みを浮かべた。谷は、口角を少し上げてボールを床につく。ひょいと軽く放ったボールは放物線を描いてゴールネットを揺らした。
「高野の番だぞ」
 谷の背中を追って、高野はゆっくりと狙いを定めた。再び、ゴールネットが揺れた。


 食洗機に洗剤を入れ、スイッチを押した。機械が動き出し、中で水がばしゃばしゃと皿の表面をなぞり落ちていく。その様子をしかと見届けた後、部屋のクーラーを消し、擦り切れた靴を履いて外に出た。9月を迎えたのにもかかわらず、太陽はアスファルトを照りつける。道路の際が陽炎のように揺らめく。思わず、皮膚の上に汗が沸き立つような感覚が走った。
 高野は、この日有休を取っていた。好きな映画が久しぶりにリバイバル上映されるということで、公開日に観る予定を立てていたのだった。18時からの回を予約したが、まだ時間は十分にある。少し出かけようと身なりを整えて、炎天下の中、駅まで歩き出した次第であった。道中でバケットハットがほしいことを思い出した。今日買ってしまおうかと考えるも、あまり外出しない高野であるため、2〜3回かぶってタンスの奥にしまわれるだろう。以前もこのように悩み、まあいいかと脳の引き出しに入れっぱなしにしていたのだった。
 革製のカバーに入れたICカードを取り出し、改札を通る。階段を下ると、強風が彼を襲った。どうやら、乗りたかった急行電車がちょうど出発してしまったようだった。しかし、火照り汗ばんだ顔に浴びる風は、程よい冷たさを感じさせ気持ちがよかった。こんなに汗をかいたのは久しぶりである。バスケ部だった高校時代が微かに脳裏に浮かんだ。休憩中に、大きな扇風機の前で汗を乾かして涼んでいたのを、先輩に咎められた記憶も同時に思い起こされた。そのうち、電車が来たので乗り込み、3人席の端に腰を下ろした。

40分ほど揺られて、やっと着いたのは母校の最寄り駅であった。一人暮らしの高野の家から、この駅は実家との距離とあまり変わらない。それでもこの地を踏むのは、10年ぶりである。あの頃よりもさらに栄えていることに高野は内心驚きを隠せなかった。マスクの下の口があんぐりとする。大きめの商業施設が近くにあるということもあり、郊外といえば郊外であるホームタウンを歩き始めた。
 木陰を辿りながら、しばらくぼんやりしていると高野は見慣れた店を見つけた。部活帰りによく立ち寄っていたコッペパン屋である。小腹も空いてきた頃であるし、たまごサンドを買おうとドアを開いた。
「いらっしゃいませー」
 若い女性の声が聞こえ、彼はいささか違和感を覚えた。あのダミ声の婆さん店主の姿は見えない。さすがに年を取りすぎたか、と声の主を見ると、婆さん店主の面影が垣間見えた。あの頃よりもさらにしわしわになっていたが、商品棚の奥のほうで、婆さん店主はパンに切り込みを入れて具を挟んでいる。若い女性は婆さん店主の子どもであると見え、高野はどこかほっと胸を撫で下ろした。たまごサンドを注文し、昔ながらの包装紙にくるんでもらい、店を出た。

 たまごサンドを頬張りながら、川沿いに出る。表通りよりも人の往来が少ないのは今も昔も変わらないようである。よく部員とともにのんびり歩いて帰った記憶がよみがえる。
 高野は1つ下の可愛がっていた後輩と、「ここから先は立ち入り禁止」と書かれた看板まで全力ダッシュをしていた。ゼエゼエと息を切らした後に、タンクのように大きな水筒をひっくり返してスポーツドリンクを飲むのが好きで、その様子を遠くから谷に見られては「こっち見るなよ!」と叫んだ。あの看板は今もあるようだった。昔よりも位置がずれているような気がするが、当時よりも視力がまた落ちたせいだからだろうか。
 そのとき高野は、はっとした。このままでは特に用もないのに高校に着いてしまう。踵を返して商業施設のほうに戻ろうかと考えたが、せっかくなら母校を見ていこうと止まりかけた足をそのまま強引に進めた。
 川の流れる音が涼しい。そうして、高校にたどり着いた。白い煙が舞うグラウンドで女子高生がサッカーをしていた。体育の授業なのだろう。そのままフェンスに沿っていくと、業者が大きなはさみで切った、伸びきった枝や葉が歩道に向かって乱雑に散りばめられていた。青々しい匂いが鼻を刺激する。そういえば、秋口にこの匂いをよく嗅いでいたなと耽った。秋というと、各部活に新人戦が待ち構えている。バスケ部も例に漏れず、夏休みは毎日練習に明け暮れていた。目標の県大会優勝に向けてチームワークを育む練習をしていた裏で、部員たちは粛々とレギュラーの座を狙っていたこともまた事実だった。高野もそのうちの一人だった。もともとレギュラーであった谷に頭を下げて、自主練に付き合ってもらったこともある。夜な夜な家の近くの公園に行ったり、放課後誰も使わなくなった体育館に忍び込んだりして苦手だったシュート練習に励んだ。

 暑さで、喉が渇いてきた。女の子たちの楽しげな声を背に高校を引き返して、映画館のある方向へ踏み出した。たしか坂を登った先にラーメン屋があったはずだ、と朧気な記憶を信じてみる。15時を回り、風が少し出てきた。そよ風のおかげでなんとか登りきると、赤い看板を掲げたラーメン屋が高野の前に現れた。ここも潰れていなかった、そのことが嬉しかった。がらりと戸を開けると、
「らっしゃーせー!」
と元気な声が彼を迎えた。
「お好きな席どうぞー!」
 昼のピークを過ぎたからか、客は高野以外に2人しかいなかった。カウンターは速く食べなければいけないという気持ちが生まれて苦手なので、テーブル席に座る。続いてお冷が彼の前に差し出され、我慢していた渇きを潤すべく一気飲みした。店員は高野の飲みっぷりに苦笑しながら水を継ぎ足した。
 土日の練習後によく谷とここに食べに来ていた。高野のほうが食欲旺盛でいつも麺を多めに注文していた。疲れた体に醤油の効いたスープが染み渡る。うますぎる、とこぼしながら麺を啜り、顧問の愚痴を言い合ったりした。高野はあの頃よりかは胃が縮んでいるため、普通盛りを頼んだ。目の前に運び込まれた醤油ラーメンが湯気を立てる。レンゲで茶色いスープをすくって、まず一口。大人になり体力が減った分、坂を登りきってヘトヘトになった体にスープが染みて、部活帰りを思い出さずにはいられなかった。そのまま、ズズズと小麦が香る麺を啜る。生き返る。先ほどまで酷暑にさらされていたものの、湯気を顔いっぱいに纏わせて麺を啜るこの時間が高野にとって幸せであると感じさせた。
 そのとき不意に、店内にあるスピーカーから音が聞こえた。10年前から変わらず、FMラジオを流しているようである。やがて、DJが曲のリクエストを読み上げると、Suedeの「Beautiful Ones」が流れてきた。メンマを噛みながら、懐かしい曲を流すな、と思った。噛む速度を曲のリズムに合わせてみると、たちまちメンマが繊維を残してバラバラに崩れていった。谷はいつもメンマを食べずに高野に渡していた。ここのメンマは比較的食べやすいのに、谷は食感が苦手であると言っていた。そんなことを考えていたら、いつの間にか丼は空になっていた。

 熱くなり、膨れた腹を持ち上げて高野は店を出た。日差しが弱まり、白い絵の具を筆で垂らしたように雲がぽつぽつと空に浮かんでいた。いくらか過ごしやすくなった気候の下で、もう少し散歩してみようと思い、ゆっくり歩く。下校途中の高校生がちらほら見えた。ジャージのまま帰っている者もおり、先生に見つかったら怒られるぞ、と心の中で呟く。実際、高野も指導を食らったことがある。苦い記憶が浮かび上がり、それもまた過去の話とふっと微笑んだ。
 あの信号を左に曲がると、閑静な住宅街が広がる。その先に大きな公園があるので、高野はコンビニに寄ってアイスを買い、ベンチで食べようと考えた。この行動ルートは、新人戦に備え練習試合をすることが多くなる8月の終わりを思い出させる。いつもは1年生が顧問と練習試合相手の高校の顧問のために弁当の差し入れをこのコンビニまで買いに行く。弁当に関して大した品揃えではないのだが、アイスにおいてはこのへんのコンビニの中では一番多く取り揃えられていた。顧問から預かった1000円札とは別に、1年生たちはこっそり200円を握りしめてアイスを買い公園で食べる。顧問に気づかれることも、近所の住民から連絡を入れられることもなかったのは、本当にこそこそ小声でだべっていたからなのか、高野は真相を知らなかった。
 一度、1年が休みになり2年だけが練習試合をする日があった。顧問はその新人戦にかなり懸けていたようだった。そのときは、高野と谷の二人で弁当を買いに行き、当然アイスも購入した。公園で棒アイスをかじりながら、練習がだるいなと話していると、谷がいつもと変わらない飄々とした声で
「俺らは何のためにバスケしているんだろうな」
と言った。あまりに突然そのように口を開いたため、思わず高野は谷の顔を見た。谷は視線をまっすぐに向けている。
「楽しくやれればそれでいいって、思っちゃってるんだよなあ」
「まあ、そういうもんだと思うけど」
「俺、別に県大会優勝とかなんも考えてない。たまたまバスケが向いてて、やってみたら楽しくて続けてるだけ……」
 高野は谷の言葉に驚いた。高野自身は、部員全員で決めた県大会優勝という目標のために、きつい練習にも耐えて頑張っているという気概を持っていた。谷は高野の自主練にも付き合ってくれているし、レギュラーになれるほど心身ともに高め、練習を積んでいるものだと思っていたので、高野の思う谷の像とそこに座る谷とは差異が生じていた。棒アイスが溶けて、オレンジ色の水滴がハーフズボンの上に落ちた。
「でも、あんなきつい練習がんばれてる俺ら、マジですごいだろ」
「それはね」
 きっと夏が終われば、きつい練習も少なくなるだろう。残ったアイスを口の中に放り込んで舌と上顎で潰す。冷たい氷が舌をヒリヒリとさせた。

 高野はそんなことを思い出していた。アイスを無意識のうちに食べ終わっていた。舌と上顎でアイスを食べる癖は今もある。「あっ」とヒリヒリする感覚に顔を少し歪ませた。スマホを確認すると17時になりそうだった。映画館に向かおうと高野は立ち上がった。ちょうど立ち上がった目線の先に赤くなりかけた太陽が見えた。眩しさに目を瞑ると、まぶたの裏が赤く染まる。そろそろ三十路にさしかかる年齢である。立ちくらみに気をつけたほうがいいな、と思った。
 公園から歩いて10分ほどで、映画館にたどり着いた。駅前の商業施設の中にも大きな映画館が入っているため、こちらの客の数は少ない。しかし、それなりにラインナップは充実しており、館内の装飾も映画愛に溢れたスタッフが施しているのだろうというくらい凝っている。駅から少し歩かなければならないのが難点ではあるものの、こういう雰囲気が高野は好きであった。高校卒業後もここに来ていればよかったと悔いた。彼の目当てである作品のポスターが入った衝立がスクリーンのドア近くに立てられている。キョロキョロと人目を気にしつつ、1枚写真を撮った。10年前に谷と放課後に観に行った作品である。谷の評価は可もなく不可もなく、といったところだったが、高野は気に入っていた。よくある青春映画ではあるが、音楽の使いどころに痺れ、それ以来再びスクリーン上映で観たいと思っていた。10年の時を経て、リバイバル上映という形で小規模ながら全国公開され、高野の家からだとこの映画館が一番近かったというわけである。高野は館内の装飾を興味深く見ていた。装飾は他の作品ではあるが、俳優の等身大パネルがあったり、地元新聞に載っていたであろうコラムを複数切り抜いて模造紙に貼られていたりと知らない人でも楽しめるように工夫されていた。バスケ部の代わりに美術部に入っていたら、こういう仕事に就いていたりしたのだろうかと考えてみたが、高野は己にデザインのセンスがあまりないことを思い出し、想像するのをやめた。
 そのうち、開場のアナウンスが入った。ドリンクを買い、チケットを発券して高野はやや後ろにある真ん中の席に座った。コーラを飲む。ここの映画館のコーラは少しだけスパイスが効いている。クラフトコーラだと気づかないまま購入してしまったようだった。予告、映画泥棒の映像、そして上映中のマナーについての映像が流れる。その後、劇場内がじんわりと暗くなった。静かな中で多くの企業のロゴが映り続ける。一瞬真っ暗になった後、波音が劇場内を包んだ。リバイバル上映が始まった。
 どうせなら谷と観たかったな、と高野は思った。あいつも年を取ったのだし、この作品に対しての評価も多少なりとも変わるのではないかと淡い期待を抱いた。しかし、高野は谷を誘うことはできなかった。谷と連絡が取れないのだった。大学生のうちはまだ、年に一度くらいのペースで会えていたが、そのたびに少しずつ痩せていたような気がする。それでも、飄々とした態度は変わらず、まっすぐ高野を見つめるその目を見て、こいつは一人でも強く生きていけるんだろうなと何度か思ったことがあった。大学を卒業し、互いに就職してからは連絡を取り合うこともなくなっていった。ふと思い立ったとき、食事に誘おうと谷のLINEにメッセージを送ってみたが、既読にならなかった。きっと仕事が忙しいのだろうと思い、そのときはそのまま放っておいた。その出来事から1年経ち、一人暮らしをすることにしたというメッセージを再びLINEに送った。やはりそれも既読にならなかった。谷はSNSなどはやらない性分だったから、LINEで連絡が取れないのはだいぶもどかしいことだった。他の友人に谷の連絡先を知っているか聞いてみたが、知らないという返事しか来ない。思い切って、谷の実家に連絡を入れてみようかとも考えたが、一人暮らしを始めたということのために連絡をするのもどうかと立ち止まってしまい、そのままにしてしまったのだった。いっそのこと、勇気を出して連絡の一本くらい入れてみたらよかったのではないかと映画を観つつ、思考の傍らでそんなことを思った。しかし、もし親でさえ連絡先を知らないと言い出したら。大学時代の谷の痩身を思い出す。
 スクリーンの中で、二人の高校生が花火を見ている。字幕に
「僕たち、ずっと友だちでいられるよね」
と表示されるも、その言葉が花火の音にかき消され、もう一人が「What?」と大きな声を出す。二人の背中を映したままカメラは引いていき、花火の浮かぶ夜空に焦点が移り変わった。そのタイミングで、Suedeの「Beautiful Ones」が流れ出した。ラーメン屋で感じた懐かしさはここにあったのかと一人思い出した。初めて観たときのあの感覚が濁流のように押し寄せた。映画館を出たとき、もう日はすっかり暮れて夜風が頬を撫でた。
「やっぱおもしろかったな」
 高野が呟くと、隣にいた谷も頷いた。
「おもしろかった」
 高野が谷の顔をそっと見ると、暗闇に紛れていて表情がよく見えなかった。だが、たしかにあいつは笑っていたと高野は思った。風に乗ってきたカレーの匂いが鼻をかすめた。明日から生活に戻るのだ、と駅へ向かって歩を進めた。

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