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役柄を捉えるなんて簡単にいうけどさ

2023/05/16のtweetより

今月から再開した「演技のためのジム」は引き続きイプセン『人形の家』に取り組んでいる。これまでジムでは複数のシーンを取り上げて適宜ペアを組んでやってもらってきたのだが、今月はとにかく延々とラスト・シーンだけを全チーム、全日程で続けてもらっている。意外とこれが飽きないのだ。

ノーラがラストシーンでヘルメル相手にカマす台詞の数々は、やっぱり今見ても非常にスリリングで面白い。この作品を安易にフェミニズムと関連づけてばかり読んでしまってはいけないのだろうけど、マジョリティへの抵抗の言葉たちとして今も精彩を放っていることは間違いない。

演じる上で、俳優が役柄の人物像≒キャラクターを捕まえる、っていうのはとても大切だと思うけど、いつでもそれは一筋縄ではいかない。たとえばノーラという役柄を捉えようと思ったら、やはり様々な解釈が出来てしまってそう簡単には全体像≒イメージが掴めない。じゃあ、どうするのか?

俳優が役柄について考える際には、異なるサイズ感でイメージをふたつ作ってみるのはどうだろうか? 自分の扱いやすい小さな人物としてのノーラ、と、自分の想像をはるかに越えていく大きな人物としてのノーラと。人形と、その巨大な影、と言ってもいいのかもしれないが、「手に収まるイメージ」と「手に負えないイメージ」とを両方持っていてほしい。なぜか。まずは「手に収まる」イメージ、ノーラでいえば、かわいらしい、子供っぽい、女性らしい、とか、まあ、どう捉えるかは自由だが、演じるためには、なんとなくでいいから第一印象となるようなイメージが要る。

役柄についての「こんな人かもしれないな」という簡易的なイメージは、演じる上で何よりのヒントになる。イメージがあれば、この人ってどれくらい偉そうにしてる人なのかな? ヘルメル(夫)に対してはどんな力関係なのかな? ということを考える上での取っ掛かりになる。ヒントになる。

ただ、自分にとって想像しやすい「手に収まる」イメージしか持っていないと、役柄を自分に合わせて、自分以下の人間に矮小化して捉えてしまう危険がある。自分が「この役柄についてはよく考えたから十分理解した!」なんて思ってるなら要注意だ。我々は親や家族のことだって「十分」には理解してない。

他者のことを考える際に「十分理解した!」なんて思うことは危険だ。むしろ真面目につきあっていればこそ「こんな一面があったんだ…」という発見が他者に対してずっと続くだろう。役柄に対しても同じこと。なんとなく、こういう人かな? というイメージを掴むことは大切だが、それが全てではない。

そこで「手に収まるイメージ」と「手に余るイメージ」と、ふたつを持って見たらどうだろうか? という話に戻る。演じるためには、ノーラのことを「わかって」あげなければいけないし、いつまでも「わからない」と感じる部分を残しておかなければいけない。「手に余る部分」を残しておくと、自分以上の誰かを想像できる。たとえばノーラは「かわいらしい女性」「子ども思いのお母さん」であるが、「戦う人間」でもあるだろうし「子を捨てる母」でもあるだろう。なぜ彼女はそんな勇気を持てたのか? 簡単に答えを出すべきじゃない。手に負えないのだ。

劇の中だけを見ていると、ノーラはかわいらしい人に見えるし、どこにでもいる一般的な人物と感じる。それも正しい。だが、一方でノーラは当時では絶対に不可能と感じられていた「家出」をし、子を残して「勉強する」ために独立への戦いを始める「変人」でもある。社会支配と戦う偉大な人物とも言える。言ってみれば、近所の優しいおばちゃんが突然ノーベル賞を取ったようなものだ。「どんなおばちゃんだった?」と言われたら答えを返すことはできる。こんな人でしたよ、と。自分はその人を知っている。だが、どうやってそんな賞を取ったのか、自分には全くわからない。…みたいな、ね。そういう二重のイメージを持つ。

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