フィフティ・フィフティ・ミュージック【全文開放】【小説】

私の仕事は、コンベアを流れてくる麻布を切ることだ。

40cm四方の正方形のベージュの麻布が流れてくるのを、刃わたりが20cmの裁ちばさみでザクリと切れ込みを入れる。
私は、麻布の底辺の真ん中を位置取って、二つに切るようにしているが、となりのおじさんや向かいの女子高生なんかは、角から切ったり、折りたたんで布の中央から切ったりしている。それが叱られているのは見たことがないし、私の切り方が褒められたことも無い。
そもそも、誰がこの仕事場を管理しているかも、私は知らなかった。

仕事場を出て上方を見上げると、紫色の都会のなかにベージュの光が灯っている。
街灯や、ヘッドライトや、ビルの窓。恐らく、すべて機械が作ったものだろう。

電車に乗って街を出る。私の家はとおい。眼下には、真四角の建物や車に張り付いたベージュの光が移ろってゆく。どれもこれも変化のないのっぺりした色彩で、折り紙で作られたアニメーションのようだ。
今の仕事を始めてしばらく経つ。私は一体、なにをして生きているのだろう。こんな人生に意味などない、なんて使い古された言葉では表せないほど、今の私の人生には何もない。

こんな事ではだめだ。この気持ちを忘れきっていないのがせめてもの救いか。
この世界には、世界を作ることを生業とする人間がいる。私というこの世界に生まれた人間が、そう成れなくてどうするというのだ。
そろそろだ。意味を完全に失ってしまうまで、そろそろだ。私は自分にそう言い聞かせた。
電車は都会を抜け、下町へ降りてきた。さっきまで紫の一色だったであろう下町は、すでに深い青に染まっていた。
意味だ。私は私の人生に意味と言う名の花を持たせるのだ。駅のホームをぎゅっと踏みしめる。靴の底が平らになっているのが分かった。

そうは言っても、何をすべきなのか分からない。物思いにふけりながら、歩きなれた人混みの下町を歩いていた私は、すっかりいつもの気分に戻ってしまっていた。いつもの様に俯き加減で、名前なんかなさそうな顔で歩く。すると──

パシャリ!水風船、のような感触。

液体のようなものに顔を包まれる直前、髪の長い女の顔が見えた。いや、男だったか。笑っていた?
その疑問が解決する直前、私の意識が一瞬切り飛ばされた。そしてその失った一瞬を補填するかの様に、頭の中に音楽が流れ込んできた。何十時間もある音楽データを無理矢理読み込まされる。データの名前は [ Chill ] とだけ書かれていたような──


気が付くと、私は両手とひざをついてその場にしゃがんでいた。私を避けた人混みは、ミカンの種のような独特な形の余白を作っていた。
自分に起きたことを思い出し、慌てて顔を触る。しかし、私の体は健康そのものだった。あのまま顔の皮膚がただれ落ちてもおかしくなかったというのに。
違っているのは、人混みの進む向きが逆であることと、朝になっている事だった。

起き上がってみても、私の体には何の異変もない。空腹すら覚えていない。何が起こったのかさっぱり分からない。しかし考えるのが面倒なので、仕事場に向かってみることにした。朝を迎えた私に出来ることは、それくらいしかなかった。

やけに楽しい通勤だった。一晩うずくまったせいでおかしくなったのかとも思ったが、そうではない。
頭の中が音楽であふれている。人混みの足音が洗練されたリズムを刻み、電車のブレーキや駆動音が金管楽器さながらの澄んだ音色を奏でる。
電車を降りると共にメロディが静まり始め、ホームの階段を登り切った時、ちょうど終わる。そしてビルの窓に反射した光を受けると、また次の音楽が始まった。
昨日の水風船(のような感触)が原因なのは明白だった。

仕事が始まっても音楽は鳴りやまない。
麻布を手に取ると同時に、特徴的なピアノのフレーズが聴こえる。いつもの様にきっちり切ると艶やかな音色が、向かいの女子高生の手元からは奔放で軽やかな音色が、脳内に響く。
面白くなって、麻布に手を付けずパスしてみた。すると、音楽は何も変わらない。かと思いきや、麻布が通り過ぎる瞬間、知覚できないほど滑らかにメロディが盛り上がっていくのが辛うじて分かった。そして麻布が視界から外れると、さっきまでの穏やかなメロディに、またしても滑らかに、落ち着いた。
二枚、三枚、四枚、と繰り返すごとに、落ち着きの幅を盛り上がりが上回っていく。振動を伴わない音楽が、私を静かに興奮させた。

気が付くと私の後ろに工場の管理者らしき人間が二人、立っていた。きっと私はまた意識を飛ばし、長い時間立ち尽くしていたのだ。この工場での仕事は、麻布を切っても切らなくても問題ないが、触ることもなくただ立っていることを許さないのだ。
二人の管理者に両腕を掴まれ、工場を引きずり出される。その間も音楽は鳴り続ける。私に触れている人間がいたからだろうか、音楽はオーケストラのように様々な音色が重なり合った、壮重なメロディを奏でていた。
それでいて穏やかそのもののメロディは、私を半ば強制的に落ち着かせた。

外に出ると、都会の景色は夕暮れだった。街並みに灯る光はひとつとして同じ形のものがなく、呼吸のように無機的で温かい鼓動を放っている。背景に流れる紫色は、繊細なグラデーションを見せている。私の感覚は、すべて吸い込まれた。

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