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「目が死んでる」は直(治)せるのか

誰しも1度は言われたことがあるだろう「目が死んでる」という言葉。他人から言われるこの言葉は、助言、心配、からかい、時には注意など様々なケースで用いられてきたはずだ。

当然ながら自分も言われたことがある言葉だが、特に忘れられないのは小学校6年の時、卒業式か何かの発表練習。当時の自分はとにかく怒られないように精一杯 腹から声を出して作文を読んでいたと思う。

小5から2年間 担任だった自分の教師は、まるで生徒を用いて帝国か何かを築かんとしてるのかというほど冷酷で独裁的で何が引き金になるのか分からないヒステリックな女性だった。優しく気さくな時もあったが、基本的に機嫌が悪い時は周囲 360°にセンサーを張り巡らせた指向性爆弾のようで生徒たちは常に恐怖していた。彼女そのものが地雷であり地雷原だからだ。怒られてる生徒があまりにも可哀想だからと他の生徒が抗議を訴え、あえなく撃沈するほどの凄惨な現場であった。

そんな日頃から修羅場ばかりで常に嫌な緊張感に包まれていたこの当時。自分は「この2年間 散々怒られてきたんだから今度こそ怒鳴られまい」と、作文を読み上げる際にしっかりと腹から声を出し、抑揚を付け、小学校生活の最後に花束をぶん投げるくらいドラマティックに読んでやろうと意気込んだ。意気込みに意気込んで、大きく息を吸って読み始めたのも束の間のことだった、

「「 目 が 死 ん で る゛ぁ゛!!!!!! 」」

めっちゃ怒鳴られた。訳が分からなかった。

何?"目が死んでる"って……嘘でしょ?いつもじゃん。

あまりの理不尽な物言いに、その刹那 頭が真っ白になってしまった。だって、そんなの直しようが無いじゃん。元々こういう覇気のない目なんだし……思い返せば内心 泣いてたと思う。

その後どうなったのかはいっさい覚えていない。この出来事が衝撃的すぎて脳がエピソード記憶に追加するのを拒絶していたのだろう。無事に読み終えたのか、硬直してまた怒られたのか、それともちょっと泣いたのか、その事実はあまりの理不尽な怒りの炎によって闇に葬られてしまった。

あれから8年ほど経った今でも考える。

「目が死んでる」は直(治)せるのか?、と。

深層心理で悔しいのか、コンプレックスになったのか、その興味は尽きない。

未だにいくらアホみたいに目をひん剥いても、奥二重の自分は目に光が宿るタイミングが限られてくる。
季節と時刻によって異なる太陽の位置と日の長さ、照明の有無、それが目に反射する角度、瞼や眉など眼孔周辺に使う筋力の程度まで、"死んでない目"になれる要素を考えに考えたが、それら全部を意識したとなると、それはもう凄いことになる。

いくら文章力では褒められていた自分の超ドラマティックな作文でも読んでいる本人の目がギラギラでヤバかったら内容入ってこないでしょ。

もう、自然にいこうよ。生があれば死もある。俺の目は死んでるんだよ。俺の目が蘇生される時があるとしたら、趣味に興奮した時やエロスに身を委ねた時と死ぬほどびっくりした時くらいだ。こうなったらもう整形するしか無いんだよ。作文のために、または先生に怒られないためだけに目をイジって月島きらりみたいにするのも悪くないんだろうけど、その後の人生がきらりんレボリューションになるとは限らない。現に君は中学で不登校ぶちかましたじゃないか。だからさ、もういいんだよ。もう解放されていい。この出来事が忘れられなくても、君は君のままで良いんだよ。目は死んでて良いんだよ。もうあの先生と関わりは無いし。

楽になろう。
死んでるものは生き返らないから。