乖離

なんの乖離か。
簡単に言うと僕と家族の間のお笑い価値観の乖離である。

僕はお笑いが好きだが、本格的にお笑いに傾倒していったのは実は大学に入ってからで、きっかけも芸人ラジオからだった。
芸人ラジオを通して直接ではなくともネット上でリスナーの人と繋がったり、そこから見たこともないようなアングラ芸人に触れたり、はたまた能動的にエンタメを摂取したりすることで、お笑いの世界が広がっていく感覚がたまらなく好きになっていった。

そんな中、去年の夏頃の特番で松ちゃんとウッチャンのテレビでの奇跡的な共演を目にした。覚えているだろうか。僕はあれを見た時、形容し難い興奮を抱いた。多分その時「えぐい!」しか言ってなかったと思う。
興奮冷めやらぬ状態で、その話題を家族に話すと、僕の姉は

「アレやっておけば数字取れると思ってたんでしょ」

と言った。僕は耳を疑った。今思い出してもなんか腹が立つが、同時に寂しい気持ちになった。こんなにまでも僕と家族でお笑いやテレビに対する認識に乖離が生じているとは思わなかった。

僕はあの共演の瞬間を目にした時、テレビに希望とロマンを抱いたが、姉はもう既にテレビを見限っていたのだ。

とても悲しかったが、これはある意味自然なことで、逆に不自然なのは僕の方である。なぜなら、変わったのは僕の方だから。僕が芸人ラジオに出会って、お笑いを好きになりすぎたせいで、家族との感覚にズレが生じてしまった。

ただ、家族がずっとこんな感じだったかと言うと、そんなことも無い。家族のお笑いやテレビに対する認識を客観的に見ると、社会や世間の風潮に適応してきたのだと思う。容姿いじりや少し過激なドッキリに家族みんなで笑っていた記憶もあるし、現在に近づくにつれそれを笑えない、許せない空気を持ち始めた気がする。それだけ家族という小さな「社会」がアップデートされ、外界の社会との摩擦を減らすために無意識下で価値観が変わってきたのだ。

特に容姿や性別に対しては、(お笑いだけではなく)とても過敏で厳しい目を向けるようになった。その目が頼もしくもあり、時には厳しすぎて居心地が悪くなることもあった。でもきっとこれからの時代そうなるべくしてなっていくのだろうなと思うと同時に、自分自身もその過敏さを持ち始めているという(良いのか悪いのか分からないが)抗いようのない変化も感じている。

しかしながら、このような変化はきっと然るべき変化で、きっと不安や焦りを感じるような問題では無いのだと思う。これまでの歴史で「面白い」と感じるものは様々に変わってきたはずで、これからも時代に合わせて上手く変わっていくのだと思う。

話が少し逸れてしまったが、僕が言いたかったのは、「お笑いのコミュニケーション」は大事だということである。普段からお笑いの話をしない人は大した問題ではないかもしれないが、「お笑いのコミュニケーション」とは、言ってしまえば「価値観の確認」である。これをしないと、いきなりギャップに直面した時、家族との距離や寂しさを思っている以上に感じてしまうことになる。だから家族とはこまめに話したほうがいい。両親がいるならどちらとも、姉や兄、妹、弟がいるなら全員と少しでもいいから話すべきである。そうすれば見た目からじゃ分からない相手や自分の変化に気づくことが出来る。

とは言いつつ僕は家族が大好きだし、おそらく人より仲が良いため、近いうちに家族でM-1ツアーに行く予定である。どうやら何も心配は要らなかったようだ。

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