【神奈川のこと17】佐野元春と楽屋で握手(横浜市中区/県民ホール)

今年、令和2年(2020年)は心から敬愛するアーティスト佐野元春が、デビュー40周年なので、このことを書く。

佐野元春は、昭和55年(1980年)にデビュー。私は、平成2年(1990年)から熱烈なファンとなり、以来、ずっとファンである。今から5年前の平成27年(2015年)ぐらいまではファンクラブにも入っていた。

そんな佐野元春の楽屋に入らせてもらい、握手をすることができた経験が一度だけある。あれは、平成10年(1998年)の春、私が27歳の時だった。

そのいきさつは、東京、フランクフルト(ドイツ)という2つの都市を経て、最後、横浜の神奈川県民ホールに辿り着く。

<東京 平成8年(1996年)夏>

まだ新卒で入社した会社に勤めていた頃、当時の営業部長と一緒に山手線か都営大江戸線で御徒町に向かう車中での会話。

「今度、佐野元春が新しいバンドを結成したんです。それで、ドラマーが元レベッカの小田原豊って言う人なんですが、ご存じですか?」

「うん、昔からよく知ってるよ。」

「えっ、本当ですか?」

「俺とお前みたいな関係だよ。」

「へぇ~(×10回)。」

さすがである。実はこの営業部長、佐野元春とほぼ同世代の元プロフェッショナルのドラマーで、その後は有名なドラムメーカーにも勤務していた経験がある。なので、佐野元春が以前組んでいたバンド、ハートランドのドラマー、古田たかしのことも、「彼にウチのドラムを使ってもらいたかったんだ」と言っていた。

ちなみに、この営業部長の叩くドラムは格別にカッコよく、粋で、何時間見ていても飽きないほど、私は好きなのだ。

<フランクフルト(ドイツ)平成10年(1998年)冬>

出張先のフランクフルトのホテル。

朝、枕元の電話が鳴った。

昨晩セットしたモーニングコールだと思って、無造作に出たら、なんと社長からの電話だった。「もしもし、今、フランクフルトに来てるんだけど、一緒に朝食を食べよう」とこうきた。

眠気が一気に覚め、急いで身支度を整え、社長の泊っているホテルに向かった。

そこには、社長と、くだんの営業部長、そして営業部長の奥様がいた。「いや、驚かせてすまない。実は、これから3人でパリに向かうんだけど、ついでだから、フランクフルトに寄って、あなたの陣中見舞いをしようということになった」と社長。その横で、英語のできない営業部長は、借りてきた猫のようにおとなしく座って、ニコニコと笑っていた。

どうもこういう訳らしい。当時勤めていた会社は外資系企業で、パリのグローバルミーティングに参加する途中で3人はフランクフルトに寄ったのだ。日本支社で大きな活躍を見せたその営業部長は、グローバルミーティングで表彰を受けるために、奥様と連れ立って、社長と一緒にいたという訳だ。奥様は、私に「売れないドラマーだったのが、こんな表彰まで受けるようになって」と照れながらも嬉しそうに話していた。

私の出張の目的は、フランクフルトで開催されている世界最大の文具見本市に参加し、世界各国の文具メーカに対して、日本で私たちが開催している文具の見本市への出展勧誘活動を行なうことだった。

そして、朝食の後、みんなでその見本市を見学しようということなった。

実は、社長は有名文具メーカの米国支社長を務めていたことがあるため、その見本市会場には知り合いが多くいた。そして、古巣の会社のブースで昔の仲間と会って話し込んでいた。それを少し遠目に見ながら、私と営業部長、そして営業部長の奥様は待っていた。

その時だ。「そう言えば、この出張が終わって帰国したらすぐに佐野元春のライブに行くんです」と私は営業部長に言った。すると、その営業部長が、「何か書くものある?」と言って、私のカバンに入っていた、会社のロゴマーク入りのレポート用紙を渡すと、その場で小田原豊宛の手紙をしたためてくれた。

内容を簡単に記すとこうなる。

「この手紙の持ち主は、私が今勤めている会社の部下で、佐野さんの大ファンです。小田原君が今、佐野さんのバンドにいることも彼が教えてくれました。どうか、彼に佐野さんと会わせてあげて、握手させてあげてください。よろしくお願いいたします。」

私は目がハートマークになったことは言うまでもない。

さっきまで借りてきた猫のようにおとなしかった営業部長が、いつもの持ち前の行動力と、粋な心遣いを見せてくれたのだ。

<横浜 平成10年(1998年)春>

神奈川県民ホールにて。

その時は、すでに十数回も佐野元春のライブに足を運んでいたが、その日は違った。

ライブ中も、これからこのステージに立っている元春に会えるのかと思うと気が気でなかった。何を話すべきか、いや、本当に会えるのかとそんなことばかりを考えてしまい、ライブの内容はあまり覚えていない。

果たしてライブは無事終了。5,6人の仲間と一緒にいたが、大勢で楽屋に押しかけて断られてしまうことを恐れ、心を鬼にして、その仲間たちには、「ちょっと外で待っていてくれ、俺一人で行ってくるから」とお願いした。

恐る恐る、スタッフらしき人に声をかけて、事情を説明し、手紙を託す。

落ち着かず、関係者の喫煙所のようなところでタバコを吹かしながら待っていると、手が震えて、火のついた灰を誤ってその場にいたスタッフの手にぶつけてしまった。「あちぃっ!」とそのスタッフは叫び、私は何度もお詫びした。スタッフはすぐに許してくれたが、相当に熱かったのだろう、その後もずっと小声で「熱い」とつぶやいていた。

ほどなく、小田原豊が楽屋から出てきてくれた。そして、中に招き入れてくれたのだ。楽屋は想像以上に狭くて驚いた。バンドメンバーは皆、背を向けて黙って座っていて、小田原豊の声だけが、部屋の中に響いていた。「佐野さん、実はかくかくしかじかで...」と佐野元春に事情を説明してくれて、私は、初対面を実現できた。

何を話したかは、覚えていない。たしか「どこから来たの?」とニッコリ聞いてくれたと記憶している。そして、サインをもらって握手をした。小田原豊にお礼を伝えて楽屋を出ようとした瞬間、あっ、忘れていた、「小田原さん、サインください。」ちゃんと小田原豊にもサインをもらった。

県民ホールの外に出ると、仲間が待っていた。「おい、握手してくれよ」と皆に言われたが、「嫌だよ、この手はしばらく洗わないんだ」と答えた。そして、その場で営業部長に感激とお礼の電話、そして小田原豊からの伝言を伝えた。

かくして、私は、佐野元春と会うことができた。

その1年半年後、私は会社を辞めた。その営業部長は、その6年後ぐらいに退職した。

そして、数年前から、その営業部長とは一緒にバンドをやらせてもらっている。歳を取っても、あの粋でカッコ良いドラミングは変わっていない。いや、むしろ円熟味が増して、より一層、素敵になっている。

あれから四半世紀が経った。この一連の思い出を振り返る時、もちろん、メインイベントは佐野元春と直接会えたことだ。しかし、それよりも何よりも、あのフランクフルトの見本市会場で見せた、営業部長の手紙をしたためている姿、あれが最も嬉しく、深く記憶に刻まれている。


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