【神奈川のこと32】消えかかる赤い鳥居(湘南モノレール/西鎌倉駅)

まもなく、見えなくなってしまいそうなので、これを書く。

地元にある湘南モノレール西鎌倉駅。

その横を神戸川(ごうどがわ)が、腰越の海へ向かって静かに流れている。

この神戸川沿いには、家々が立ち並んでいるのだが、一部、崖になっているのを、西鎌倉駅のホームから見ることができる。

この崖には、水位から数メートルの高さに「銃座」がある。これは、太平洋戦争末期、腰越の海岸から上陸してくる米軍を迎え撃つために備えられた。見れば何てことの無いただの「穴」なのだが、75年前のこの場所には、同じく神戸川が流れていて、腰越の海から続く道が、現在と同じように存在していたことを示している。当時の風景を想像し、想いを馳せる。

この銃座の上方には、草木が生い茂った山となっていた。それが、昨年の強烈なハリケーンで、複数の木がなぎ倒された。数日後、鎌倉市がなぎ倒され無残な姿で崖に残っている木々を取り除いた。

すると、突如、その山の頂上に赤い鳥居が出現した。

初めてそれに気づいた時には、思わず目を疑った。あそこに鳥居があることは、全く知らなかった。しばらくは信じられなかった。でもそれは、確実に存在していた。流れる雲を背に、赤く、ひっそりと。

子供の頃、その鳥居のある山の一帯を蟹田谷(がんだがや)と呼んでいた。住所表記には無いが、昔からの地名だ。この西鎌倉一帯には、古くから上述の神戸川が山あいを縫って腰越の海に向かって流れており、それに沿って集落が形成されていた。その歴史は恐らく何百年、いや千年という長さであろうと想像する。よって、神戸川沿いには、旧家が今でも点在している。石井、榎本、小川、草柳、坂巻、島村(嶋村・嶌村)と言った姓が代表的だ。小中学校の同級生にこの姓が何名かいる。

そして、昭和40年代、神戸川を囲むように存在していた山々が、不動産会社により開発され、あれよあれよという間に新興住宅地となった。私をはじめ、今この街に住む多くの人間は、別の場所からこの新興住宅地に移り住んできた。この地域の長い歴史を考えれば、全くもって新参者だ。

ちなみに「西鎌倉」という地名も恐らく50年ぐらい前につけられた、いわば新参者のための地名であろう。旧来この辺りは、津村、蟹田谷、赤羽根、初沢、猫池などと呼ばれていたはずだ。今でも津村と赤羽はバス停の名で残っている。

その鳥居のある山のふもとには、島村の本家がある。その分家にあたる同級生のやすこに尋ねたところ、「子供の頃、本家に遊びに行った時にその鳥居を見た」と言っていた。

ああ、やっぱり長い間、そこに立っていたのだろう。

「何だい、知らなかったのかい。ずっと昔からここにいたんだよ。今さら何を驚いているんだい。新参者よ。」

鳥居はそう語りかけているようにも思える。

周囲の山々が切り崩され、宅地開発されていく高度経済成長の時も、ふもとの崖に銃座が作られる戦争の時も、そしてそのはるか昔の何も変わらない穏やかなる時も、ずっとそこに立っていたのでしょうか。

周囲の草木がだんだんと育ってきたため、鳥居の姿は今、だいぶ隠れてしまっている。

蟹田谷の鳥居よ、新参者をこれからも見守っていてください。その姿がまた隠れてしまっても。





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