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【神奈川のこと66】西鎌倉リトルリーグ(鎌倉市手広/クローバー畑)

昭和54年(1979年)、小学校3年で入団した西鎌倉リトルリーグ。

そこでもらった背番号は66だった。

以来、中学校1年の夏に卒団するまでずっと66。

よって、これを書く。

小学校2年生の時、日曜になるとよく、近所にあったスーパーマーケットの西友とその隣の西武不動産の前の道を、タジミ監督率いる西鎌倉リトルリーグの選手たちが走っていた。つまり現在のローソンとバーミヤンの前の道である。

自分から入りたいと言ったのか、親が入れたのかは忘れたが、小学校3年から入団。

クリーム地に赤いラインの入ったユニフォーム。胸には赤色でNishikamaと刻まれていた。帽子のマークは、NとKを合体させた形をしていた。

本拠地のグランドは、手広の丘、西ヶ谷に位置しており、広い長方形をしていた。右翼が狭く、左中間が深い。

外野には一面クローバーの緑で覆われていたことから、みんな「クローバー畑」と呼んでいた。

右中間フェンスの奥は手広に向かってなだらかな斜面が広がっており、草ぼうぼう。球探しに苦労した。

左翼の奥には、西鎌倉幼稚園に向かって急斜面の崖がせり上がっていて、練習ではよくそこを駆け上がった。てっぺんまで駆け上がり振り返ると、正面に西ヶ谷団地、右手には神戸製鋼の社宅、左手には東レの研究所が見えた。

神戸製鋼の社宅側にはグラウンドレベルから一段下がって、細い長方形をした空き地があり、練習場所として使っていた。

手元に一枚のモノクロ写真がある。

グラウンドレベルから一段下の練習場で、当時の4年、3年、2年生の集合写真。練習の合間に撮ったと思われる。

西鎌倉小学校からだけでなく、腰越小学校や藤沢市立片瀬小学校から来ている選手もいた。3つの小学校が混ざっていた。

同学年では、インチャン、キンコ、ドイ、シンゴ、シュウジ、タカヤマ、カノウの顔が見える。カノウだけ片瀬小学校だ。

何てったって、3つ上の最上級生がカッコ良かった。憧れの眼差して見つめていた。

頼もしい主将で捕手のウシジマさん、エースのイトウさんは後に我が母校東海大相模に進学、真面目だけどどこかひょうきんなイマイさん、身体の大きなカミヤさんは一塁手、運動神経抜群のタマヤさん、イケメンでアイドルのように輝いていたタムラさん、足が速くて野球センスの塊だったナカヤマさん。

クローバー畑で躍動する憧れの6年生たちだった。

一度、横浜大洋ホエールズの長崎啓二が、クローバー畑に来てくれたことがあった。左のあの独特の打ち方で当時の6年生たちにノックをした。周囲にせがまれて大飛球を打ってみせてくれた時には、右中間深くに吸い込まれていく打球に息をのんだ。

左利きが自分しかいなかったこともあり、小学校4年から投手をやった。

クローバー畑でのベストゲームは、当時神奈川県で結構な強豪チームだった、相模原リトルリーグを呼んでの練習試合で、完封勝利したことだ。

以来、県大会の会場で相模原リトルリーグの監督さんに会うと、「おっ、ニシカマの66番。いいピッチャーだ」と言って握手をしてくれた。横浜大洋ホエールズの基満男みたいな顔をした監督さんだった。

同じ湘南ブロックの強豪チーム、平塚リトルリーグには、後に母校東海大相模の遊撃手となるキムがいた。キムは走攻守で当時、すでに同学年の中ではずば抜けた存在だった。クローバー畑での試合では、キムの投げる球に、MIZUNOの金属バットはかすりもしなかった。

小学校5年の時、クローバー畑は、母校鎌倉市立手広中学校の建設のため使えなくなった。

同時に、由比ヶ浜(※)か、材木座方面にあった鎌倉リトルリーグが解散。※「ゆ」にアクセント。

西鎌倉リトルリーグは、鎌倉リトルリーグに名称を変更。現在笛田リサイクルセンターのある場所に本拠地グランドを建設し、ユニフォームも新たなデザインで生まれ変わった。

その後、中学校1年の夏まで鎌倉リトルリーグでプレーしたが、そのことはまたいつか書く。

今、母校手広中学校に行っても、クローバー畑の面影は全くない。西鎌倉幼稚園へと続く急斜面に、あの左翼奥の崖の角度を思い起こさせるぐらいか。

しかし、当時のグラウンドの地形、内野の凸凹とした感触、バックネットの鉄パイプ、ブルペン、凍らせた水筒、審判のミヤザキさんの甲高い声、タマヤコーチの昭和の球の放り方、ハンザワさんの優しい笑顔、ナガノさんの指、球拾いの草いきれ、シュウジの重い球をありありと思い出す。

♪八幡様に願掛けて~ おみくじ引いてき~たらば~ 今日もに~し~か~ま、勝~つ勝~つ、勝っつ勝つ♪


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