【神奈川のこと42】相模 vs 甲府、時々高輪台(横浜市港南区上大岡)
昨日は、6年前に帰天した母の命日であった。一方で、38年ぶりに甲子園で東海大系列校対決が行なわれた。よって、これを書く。
あれは、昭和58年(1983年)、中学校1年の夏であった。家族で伊豆の修善寺へ旅行に行った帰り道のこと。伊豆半島を台風が直撃したため、通行止めとなり、鎌倉の家に帰られなくなってしまった。
土砂降りの雨と渋滞に巻き込まれ、当時の家の車、日産グロリアY30の車内では、父と母が「今夜はどこに泊まろうか?」「あなた、明日の仕事は大丈夫なの?」という会話をしていた。
その時、カーラジオから流れていたのが、夏の甲子園大会「東海大一高 対 東海大二高」であった。同じユニフォーム姿のチーム同士が相まみえるところをテレビで観られないのが残念であった。実況アナウンサーの声から、懸命に想像力を膨らませて聴いていた。後で雑誌の写真を見たら、一高は白地にタテジマ、二高が青地にタテジマであった。
そんな東海大系列校対決が今年、再び実現した。母校、東海大相模 対 東海大甲府だ。監督は共に相模OB。甲府の村中監督は、私の一回り上の12期生で、相模の門馬監督は私の一つ上、23期生だ。
この38年ぶりの対決を、甲府野球部OBで、大学では同じ法学部の i先輩と一緒に、横浜は上大岡で観戦した。i先輩とは、8年ほど前に仕事を通じて知り合った。それ以来、すっかり意気投合し、年に数回会っては酒を酌み交わす仲だ。
そのi先輩行きつけである上大岡の立ち飲み屋に、特別に開店前から入れてもらった。社会的距離を保ちつつ、お互いに酒のつぎあいもなし。「ついにこの日が来ましたね」なんて言いながら、メロディが同じで歌詞だけ違う両校の校歌を一緒に口ずさんだ。
試合展開によっては、険悪な空気になってしまうかもしれないので、「仲裁役」として、お互いのちょうど真ん中に、東海大高輪台高校の野球応援タオルを置く。これは、相模の同級生ともちゃんの息子が、数年前に高輪台野球部の選手として、都大会準決勝に出た際、神宮球場へ応援に行った時にもらったものだ。険悪になったら、このタオルにお互い触ることにした。
相模対甲府戦は、予想以上の好ゲームが展開された。両校の意地がぶつかり合う緊迫感、共に守備がいい。i先輩と一緒に思わずうなる。出塁すると、一塁ベースの周りには、バッターランナー、ファーストコーチャー、一塁手とその先に見える二塁手が皆、同じユニフォームを着ている。
38年前の一高対二高は、白と青とはっきり違いが分かったが、相模と甲府は同じ青地のタテジマ。やや相模の方が、濃い青色をしているぐらいで、酷似している。
同じユニフォームの選手を、敵味方に区別して応援する難しさと、ゲーム内容の良さ、選手のはつらつさなどに心を打たれて、かなり早い回から、「もうどっちが勝ってもいい」とお互いに考えるようになった。ヒットが出れば拍手し、ピンチを抑えれば拍手、両校の遊撃手が良いプレーを見せれば「素晴らしい!」と拍手した。「どっちもがんばれ!」と純粋に思えた。
結果として、母校の相模が3-1で兄弟校の甲府を下した。
高輪台の応援タオルが、中和してくれた。
甲府は、必ず夏も甲子園にやってきてほしい。もちろん、相模もだが。高輪台も東東京代表を目指して頑張ってくれ。行けたら神宮にまた応援に行く。タオル持参で。
尚、時は流れて現在。当時の東海大一高は、東海大静岡翔洋となり、東海大二高は東海大熊本星翔となっている。
ちなみに、相模のエースナンバーをつけた左腕の石田投手は、「イシダ」ではなく「イシタ」と読む。そう、ムー一族のカネタさんのように。
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