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【神奈川のこと106】恩師、逝く(鎌倉市立手広中学校)

中学校時代の恩師、川端保朗先生が5月29日逝去。
73歳と1ヶ月の生涯。2年間にわたる癌との闘いの末だった。

よって、これを書く。

「お前、生徒会長やってみないか」

あれは昭和59年(1984年)、鎌倉市立手広中学校2年生の秋だった。放課後、陸上部の練習を終えて職員室下にある共有スペース(※)で部員のさとしんや伸次なんかと着替えながらじゃれあっていたとき、川端先生に声をかけられた。※写真:校章下の空間

「いやさ、この代の生徒会長は誰がいいべって聞いて回ってるとさ、『小林がいいんじゃねぇか』って、みんな言うんだよ」

「参ったな、俺にできるのか」

あの瞬間を思い出すと今でもみぞおちのあたりが重くなる。

その後何日か考えた。そして腹をくくった。

他の候補者はいなかったので、信任投票という方法で選挙は行われた。

普段は「そんなのくだらねぇ」と言いそうな悪友のすっちゃんが意外にも体育館での応援演説を買って出た。

かくして鎌倉市立手広中学校二代目生徒会長に就任。

学校というのは教師が生徒を管理するのではなく、自由な校風の中で主体性を育ませるべきであるという考えを持っていた川端先生は、生徒会顧問として、生徒主体の学校づくりを目指していた。

だから文化祭などの行事を生徒会が「主催」することにこだわった。

しかし生徒の我々からすると「自由」や「主体性を持つ」ということは、至難の業であった。

よく𠮟られた。ただ、それは身だしなみや勉強に関することではなく、主体性ある行動や発言であったかどうかが基準だった。

校内暴力が多かった時代。ましてや新設校だったので、教師たちは必死になって生徒を管理しようとしていた。川端先生はそうした体制側にはけっして立たなかった。そんな教師が生徒会顧問であることに、はじめの内は強い違和感を抱いていた。なぜなら生徒会は体制側であると考えていたからだ。

川端先生は時に体制側の象徴である生徒指導のS先生と私たち生徒の前で口論する姿も見せた。S先生は、角刈りの頭をした数学教師で柔道部顧問。

結果的に、生徒会主催の各種行事は大いなる盛り上がりを見せ、学年と学校のまとまり、団結は深まった。それは言葉にできない感動や達成感となって今も心に刻まれている。

「卒業式でかける曲、どれがいいか一緒に選ぶべ」。

中学校卒業間近の昭和61年(1986年)冬。鎌倉と逗子の市境にあった当時の先生の家にお邪魔して、何枚かのレコードを聴いた。生徒会長も退任して、高校進学も決まってあとは卒業を待つだけというあの時期。コーヒーをいただきながら先生の自宅で過ごした数時間は安心の心持ちで実に楽しかった。

中学卒業後も先生との交流は続いた。大学生の時分には、何度か藤沢市のご自宅にお邪魔して話し込んだ。平成8年(1996年)来賓として出席してもらった鎌倉プリンスホテルでの結婚披露宴では「乾杯」をギターの弾き語りで歌ってくれた。また、折に触れて送ってくれるハガキにはいつも、私を元気づける言葉が記してあった。

最後に会ったのは、先生が石川県に引っ越す前の平成27年(2015年)藤沢市の自宅に同級生のまあちゃんと一緒に訪ねた時だった。事前に連絡をせず訪問したので、玄関先で20分ほどの立ち話となった。握手をした先生の手は温かかった。

訃報は石川県に住む奥様からの手紙によってもたらされた。その手紙と一緒に先生が私に出そうとしていた数年前の寒中見舞いハガキが同封されていた。そこには私の健康を案じ、励ます言葉が並び、「北陸の雪の城下町に過ごしながら、再会の日を穏やかに思いめぐらせています」と結ばれていた。
板書で見慣れた先生の手書きの字は優しく語り掛けていた。

中学校の3年間という多感な時期に先生と出逢い、生徒会顧問と生徒会長という関係の中で濃密な時間を過ごせたことは、私の現在を生きる礎となっております。先生が旅立たれたことは、当時の生徒会執行部だった奥藤、オケ、ゆた、川戸、隆昭、そしてサトにも伝えます。

お別れは、先生の家でレコードを聴いて選んだ卒業式のこの退場曲を。

"Bridge Over Troubled Water"  Simon & Garfunkel.

参考:先生との出会いはこちら。


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