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【神奈川のこと103】ランドリー号に乗って=前編=(鎌倉リトルリーグ)

40年ぶりに当時の仲間が集い、想い出の地を巡った。

よってこれを書く。

昭和58年(1983年)、鎌倉市立手広中学校1年生の夏。所属していた硬式野球チームの鎌倉リトルリーグ(以下、鎌倉LL)では、最上級生チーム「イーグルス」の主将として最後の大会に臨むべく毎週練習を重ねていた。

昭和54年(1979年)、鎌倉市立西鎌倉小学校3年生の春に入団してから丸4年。この間、リーグ名は「西鎌倉LL」から昭和56年(1981年)に「鎌倉LL」へ変更となり、これに伴いユニフォームも一新。また、ホームグラウンドは「クローバー畑」の愛称で親しまれていた現在の手広中学校のある場所から、市の保有する笛田1丁目の柏尾川沿いにある借地へと移転。そこに父母と選手総出で立派なグラウンドを建設した。グラウンド開きには、「湘南ブロック」のチームを招待して記念試合が盛大に行われた。

当時の西鎌倉地域には、「西鎌倉ジャガース」と「手広ホワイトベアーズ」という軟式の少年野球チームも存在しており、野球がとても盛んであった。その後、鎌倉LLは市からのグラウンド借用期限が切れたことにより活動場所を失い1990年代前半に解散。今はもう存在していない。上述した2つの軟式野球チームは平成7年(1995年)に合併し、「オール西鎌倉少年野球クラブ」となって現在も西鎌倉小学校を拠点に活動を続けている。

話を戻そう。

最上級生チームのイーグルスを率いていたのは、岩沢 勲監督だ。クリーニング店を営む監督が配達に使うワゴン車、通称「ランドリー号」に我々最上級生は乗り込み、県内のあちこちへ遠征に行った。少し前かがみになってハンドルを握る監督の手にはいつも吸いかけのタバコ。煙いなんて当時は全く思わなかった。むしろ、タバコの匂いが監督の存在そのものだったから。助手席にはいんちゃんとキム。後部座席には、キンコ、幸治と私が乗った。

その岩沢監督が、昨年、令和5年(2023年)5月に逝ってしまった。享年86。

令和6年(2024年)4月下旬のGW初日、かつての仲間で墓参りをした。メンバーは、上述の中からの4人と、雄ちゃんを加えての5人。

当日のスターティングオーダーは以下の通り。
1番センター、いんちゃん。出塁率5割の頼れる1番打者で、中堅も遊撃も守れるユーティリティプレーヤー。千葉から来てくれた。
2番セカンド、幸治。当時チーム内で最も背が低くて俊敏だったため二塁手を任された。「チビの幸治」は今や5人の中で最も背が高い。進化論を地で行っている。
3番キャッチャー、キンコ。破壊力満点の好打者。当時では珍しく「マイバット」を持っていた。その銀色に輝くローリングス製のバットを振りぬくと白球は青い左翼フェンスを越えた。
4番ファースト、主将の自分も一応入れておく。
5番ライト、雄ちゃん。王貞治への強い憧れから、右利きを投打共に左に直した努力家。少年とは思えぬ力の抜け加減が絶妙で、細身ながら上手くバットの遠心力を使って長打を放った。ただ、7月31日生まれというリトルリーガーにとっては悲運の誕生日によって、小6の秋までしか一緒にプレーすることはできなかった。

一行は、西鎌倉に新しくできたカフェ「ヴァルマ」に集合した。

後編に続く。

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