【神奈川のこと60】ノブレス・オブリージュ、さとじゅう(相模原市/東海大相模高校)

にわかに、高校3年生のクラスメイトグループがLINE上に出来、担任の佐藤重一先生(通称:さとじゅう)にメッセージを贈ろうということになった。

よって、これを書く。

さとじゅうは英語の先生だった。

高橋英樹と加藤剛を足して二で割ったような男前。

高校1年生から教わっていた。さとじゅうの英語の授業が好きで、高校時代、英語だけはがんばった。

さとじゅうは、我が母校の卒業生でもあった。確か、7期。私たち24期生の17期も上の大先輩だ。

当時、体育科の教員が幅を利かせ、鬼の形相と怒声で生徒を管理していた校風の中で、一切の圧力と権力も誇示せず、常に、気品ある穏やかな口調で生徒と接した先生であった。

それは、覇道に対する王道とも言える。

当時、運動部に所属していない生徒を「一般」と呼ぶ風潮があった。「一般」とは、正しくはスポーツ推薦ではない、一般受験で入学した生徒を指すはずである。しかし、運動部でない輩は「下に見る」風潮がそうさせていた。噴飯もの、愚の骨頂だが事実、そうだった。

そんな風潮の中で、「運動部」に所属し、部長まで務めていた私にとって、さとじゅうの存在は、静かに、本分である学業に向かわせてくれた。実に幸運であったとしか言いようがない。

そんな、さとじゅうの思い出ベスト5を挙げる。

その1. ワシガシラさん:高校1年、最初の英語の授業。さとじゅうは、出席簿を元に、一人ずつ名前を呼ぶ。その時、クラスに鷲頭さんという女子生徒がいた。彼女の名前を呼ぶ時に、「あ、ちょっと待って、(読み方を)当ててみる」と言って少し間を空けてから、「ワシガシラさん」とにっこりと言った。「いいえ、ワシズです」とこれまたにっこりと鷲頭さんは返した。「ああ、失礼、失礼」と柔和な笑顔を浮かべたさとじゅう。ある種の気品が1年10組の教室に漂った瞬間であった。

その2. カメハメハ高校:高校1年の時に、ハワイのカメハメハ高校野球チームが来日し、我が母校の野球部と対戦した。それを、生徒達は教室から観戦した。その時に、英語のアナウンスを受け持ったさとじゅう。持ち前の素敵な発音で、"Center Fielder, 誰々" などのアナウンスを、私たちは教室のスピーカーを通じて聴いていた。堂々としたさとじゅうの英語のアナウンスを、1年10組の教室の中で誇らしく感じていた。

その3. Wanna Bag?:高校1年の時の授業で、さとじゅうがアメリカに留学した時の話をしてくれた。確かニューヨークのスーパーマーケットのレジで、店員に "Wanna bag?"と聞かれた話。つまり、学校で習う英語と、実践の英語は違うということを言わんとしていたように記憶している。その瞬間、1年10組の教室に、マンハッタンの喧騒が聴こえた。

その4. 赤ちゃんの人形:高校3年の最後の日だったか。さとじゅうがクラスのみんなに語ったこと。奥様が流産、そして病院のベッドで、赤ちゃんの人形を抱いていたという。プライベートな話はほとんどしないさとじゅうであったが、卒業し、大人になっていく私たちへのメッセージであったと記憶している。

その5. 野心家の弁護士:高校3年の秋、進路に悩んでいて、職員室のさとじゅうを訪ねて相談した。その時さとじゅうは、あっ、とひらめいたかのような表情をして、「小林は、野心家の弁護士なんかいいんじゃないか?」と言った。「ヤシンカノベンゴシ」という言葉の意味がよく理解できなかったが、何となく「よしっ、それでいこう」と思わせてくれる説得力があった。それで、東海大学の法学部へ進学した。まあ結局、大して勉強もせずに卒業した。すみません。でも、今は、年に何人もの企業法務や、社内弁護士の方のキャリア相談に乗る仕事をしている。運命だ。

ノブレス・オブリージュ。

ダンディ、ジェントルマン、とさとじゅうを表現することは多い。

確かに、高橋英樹と加藤剛を足して二で割ったような男前。

そして、「声」も実にいい。

だが、今、この年齢になって、あの昭和61年(1986年)から平成元年(1989年)の3年間を振り返ってみて感じること。

さとじゅうが実践していたことは、ノブレス・オブリージュだったのではないか。

佐藤先生、ありがとうございました。そして、どうかお元気で。

母校がコロナ禍で苦しんでいる今、祈らずにはいられない。


 




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