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赤瀬川原平の文章『オブジェを持った無産者』を読んでいる。2 つづきのつづき『なんでもないものの変容』

文章に書いてみて、はじめて、そうだったのかと発見することがある。文字にして状況を繰りかえす、反復することで、表面にある覆われたものは取り除かれていく。書くという言語活動はいろいろなものを掘り起こしてくれてて、うれしい。

1988年の「トマソン黙示録」展の小さな新聞の切り抜きに書かれていることを読み直すまで、赤瀬川原平さんにとっての瀧口修造さんについて考えることはなかった。8回目の瀧口修造氏のオマージュ展だったという佐谷画廊での「トマソン黙示録」展。1回目から7回目はどんな展覧会だったのだろう。9回目のオマージュ展は開催されたのだろうか。(と思って、名古屋市美術館の「赤瀬川原平の冒険」の図録の年譜で探してみるけれど、8回目のオマージュ展しか出てこない。)

佐谷画廊での
「瀧口修造さんはお好きですか?」
という赤瀬川原平さんの言葉が心にポツンと残っている。
瀧口修造さんは、千円札裁判の弁護人の一人である。
何時のことだったか、書店で、瀧口修造さんのデカルコマニーカレンダーを買ったことがある。A5サイズくらいの小さいカレンダーで、水色を基調をした爽やかな作品だったように思う。

                 *

この間、たまたま見た写真家たちの配信するユーチューブの番組が面白いので、毎日かかさず、番組を追いかけて見ていた。見ているだけで、写真家たちの熱量が伝わってきて、心がじんわりと温まってくる。カメラや写真に熱中する人たちの集中力、噴出する写真熱が収まらない。取り囲まれる日々の不安からの忘却装置になっている。

                 *

いろいろな配信をしてくれる写真家たちの中で松濤美術館で開催された、


「前衛」写真の精神:
なんでもないものの変容

瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄
         (開催期間 2023年2月2日(土)-2024年2月4日(日)


という展覧会について、紹介している人がいた。
その番組を見たときは、「なんでもないものの変容」というタイトルと瀧口修造という名前が耳に残った。「なんでもないものの変容」というタイトルは素敵だなあと思い、同時に瀧口修造さんの展示される作品はどんなんだろうと思いが膨らんだ。

また暫くして、ある時「なんでもないものの変容」って、これはトマソンではないか、と思いついた。トマソンをより理解するには、まず、瀧口修造という入り口から入らなければならないような感じがして、図録を買ってみた。

                 *

送られてきた図録を見てみると、最初の表紙が、なんと、なんと、トマソン(トマソンと名付けられる前の)だった。

危険と書かれた道路の一角にある四角い扉のある通気口のような物が、危険らしいのだ。危険らしい物件(その四角い通気口、およびその周辺)は、何か白くなってもじゃもじゃとしていて、危険らしいことを物語っている。白い線が、言葉をもじゃもじゃと吐きだしている。
           ここは危険だぞ、と。
白い線が発音している。
画面にあるのは横に流れる線が5本。危険の小さな看板が付けられている縦の棒があって、ほんの、少し右に傾いていて(傾きが美しい。傾かないといけない気がする美しさである。)、その先には旗がなびいている。なびいている形が、また美しい。なびいているので、風が吹いているのだろうけれど、静かな美しさだ。傾いている黒い棒は、単純な平面に変化を与え、画面に君臨している。コンクリートのブロック(危険の看板と旗の棒が取り付けられている)と危険の看板が、唯一この画面の立体構造を支えて、空間の維持をしている。そして、コンクリートの壁と道路の3重構造が素晴らしいです。

この表紙の作者は大辻清司さん。よく見ると、大きな帯でした。

写真のタイトルは「開けるな!」1953年/頁78。
もう一つ、「開けるな!」1953年/頁78があって、蔦の絡まった開かずの窓がレンガの壁で装飾されている。

                 *

図録のごあいさつにある

「日常現実のふかい襞」をとらえ得る写真というメディアに超現実の可能性を見たという瀧口修造さん...

図録/「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容
瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄
主催者のごあいさつ
太字は筆者


という記述にトマソンの生まれた場所を感じることが出来、詩人でもあった瀧口修造さんの言葉「日常のふかい襞」を嚙み締めた。

この表紙(帯)を毎日見て、気持ちを引き締めたいと思います
この図録に収録されている作品たちは心にじんわりきます!!


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