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ドクトルジバゴ、初めと終わり

検診にやってきた淑美ちゃんとエレベーターに乗る。久しぶりに会ったので、話が尽きない。病院の廊下を歩いている時も、エレベータを待つ間も絶え間なくである。この間会った時から、どんな時間を過ごしたのか、お喋りでその時間を繋げている。
エレベータが来たので乗る。気が付くと、エレベーターは上がるわけでもなく、下に降りる気配もなく、エレベーターは口を閉じたままである。喋ることばかりに気を取られていて、行先のボタンを押していなかったのである。どこへ行きたいのか、行先を告げないと近道を失うことになる。準備はできたと思っていても、なぜか始まらないことがある。

高校生だった頃、放課後、古川劇場に「ドクトルジバゴ」を見に行った。講演会やら、演歌歌手のコンサート、あと何本かの映画も見たことがある。その、「ドクトルジバゴ」だが、映画館に着いたときは、もう、とっくに始まっていた。始まってしまっている映画のストーリーには全く歯が立たず、途方に暮れた。映画を見ることで途方に暮れるってどういうことかと思う。そして、映画はずんずんずんと先に行ってしまう。しかも、終電までには終わらなくて、途中で帰らなくてはいけない。結局、「ドクトルジバゴ」は初めも終りもない、つまみ食いの「ドクトルジバゴ」になってしまったのだ。

つまみ食いは困る。最初と最後がないのは、やっぱり困る。初めに躓くことは度々あるけれど、終りにも躓いたわけで、長すぎる「ドクトルジバゴ」がいけないと不満を言ってみる。つまみ食いは、本当は、美味しいのだけれど、好奇心を満たすのみで、果てしがない。「ドクトルジバゴ」は幻想だったかと思えば、すっきりして、映画の後ろ姿を、何か、遠くから見送っていたような感じがしてくる。

その後、わたしは尾賀書店で、その幻想のアウトラインをはっきりさせようと、原作本を買った。作者はパステルナーク。なんか、いい名前だなと思う。しかし、その文庫本は上下巻に分かれていて、その時は上巻しかなかったのだ。まだ下巻は買っていないので、私の「ドクトルジバゴ」は、いまだに完了していない。

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