北京~ウランバートルラリーの記録 - 前編
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北京~ウランバートルラリーの記録 - 前編

2006年に開催された北京~ウランバートルラリーにKTM400EXCRで出場した時の記録。世界一美しい大地を走った10日間。前編・中編・後編としてお届けします。※前編は無料 (中・後編は2日毎に掲載します)


BEIJING-ULANBAATAR 2006
北京~ウランバートルラリー
2006年8月7~16日
主催 : SSER ORGANISATIONText : 春木久史
Photos : Yasuaki Jibu 

ユーラシアの中央に位置し、地球的な規模で広がるゴビの乾燥地帯。この大地の素晴らしさを知り、味わい尽くすために、このモーターサイクルという道具と、ラリーという仕組みが、なんとしっくりとくるのだろう。10日間という短いようで長い旅。ライダーたちは、他のいかなる方法でモンゴルを探検してきた人々も知りえなかった、未知の大陸、その姿を知る。


北京飯店

 北京では実質、開会式のようなパーティが行なわれるだけだ。1泊2日の滞在を記号的に消化するだけで、ラリーとどういう関係があるのかわからないと感じた向きもあるようだが、こういう部分では非常に物分りが良い、というかこだわらない性格の俺は、単に、北京でゆっくりできるということだけで、ラリーがずいぶん贅沢なものになったように感じただけだ。将来的に、北京あるいは中モ国境付近の街になるのか、とにかく国境越えのラリーを実現する可能性を残すために、今はこうしたことも必要なのだろう。
 2週間日本を離れるためには、人並みに、ずいぶんと無理に仕事のスケジュールをこなしてきた。ここからはたっぷり、そしてゆっくり、バイクに乗るだけの生活を楽しめるのだ。そういう開放感、幸福感はなによりもの贅沢だ。だが、なかには開放感に浸りすぎて、北京飯店の裏手の繁華街で、ぼったくりに遭った連中もいた。一人何万円もやられたらしい。大爆笑だ。俺はといえば、屋台でチャイナドレスを言い値の1/5にまけさせて満足し、バカみたいに辛いだけの麺(スープが真っ赤なのだ)とビールを注文し、生ぬるく湿った風を楽しむ北京の夜だった。

モンゴルは800年

 翌朝、再び中国国際航空の狭いシートで2時間ほどもがまんしていると、ウランバートルの空港に着いた。チンギスハーンによるモンゴル建国800年にあわせて、この空港は以前の「ウランバートル国際空港」から「チンギスハーン国際空港」に改称されている。日本では「チンギス汗(カン=王、君主の意味)」と書くことが多いこのモンゴルの英雄についてあえて書くことはしない--井上靖の伝記的小説「蒼き狼」がいい--。チンギス・ハーンという存在は、しかし、ソビエトによる支配が続いた1920年から1990年までの間、封印された存在だった。800年前にロシアもまたチンギス・ハーンの騎馬軍団によって蹂躙された国だったからだ。ソ連邦の崩壊後、今度は民族自決のシンボルとなった復活したわけだが、モンゴル国の玄関口にその名が冠されることは、国民の英雄に対する崇敬を如実に表している。
 俺は札幌=北海道に住んでいるのだが、地元新聞の投書欄に、モンゴル人留学生の寄稿を読んだことがある。「焼肉料理に我々の英雄の名がついているのはいかがなものか」という内容だった。その後、別のモンゴル人と札幌のビール園でジンギスカン(言うまでもなく、羊肉の鉄板焼のことだ)を食べる機会があった。自分で食べたいといったくせに、「ジンギスカンはどうだい?」と聞くたびに「違います。チンギス・ハーンです」と言い直すのはどうかと思った。しかし、モンゴル人はきっと鷹揚な性格なのだろう。「焼肉料理をジンギスカンと呼ぶのはやめてほしい」という要請が、日本の関係機関に寄せられたという話はまだ聞かない。
 当のチンギス・ハーン空港は、規模で言えば高知龍馬空港ぐらいだろうか、バゲッジクレイムなどはもっともっと小さい。これで国際旅客をさばけるのだろうかと思うぐらいだが、まず、こんなものでいいのだろう。とにかく、俺はウランバートルに降り立った。生涯三度目のモンゴルだ。

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NUHT HOTEL

 ここからスタートまではあわただしい時間だ。すでにホテルに届けられているマシンをコンテナから出し、最終的なセットアップをしたり、ラリー中に運搬してもらう荷物と、ホテルに預けたままにしておく荷物とに整理して分けたり。またその間に、主催者によるブリーフィングがあったりと、なかなか忙しい。街に出て美味しいものを食べたりしたいと思っていたのだが、そんなことを考える余裕もなく、バッグの中身をあれこれといじっているうちに、夜は更けていった。
 このラリーでは、主催者が、スペアタイヤ、スペアホイールのほかに、二つのバッグを運搬してくれる。一つは20kgバッグ。これはカミオン(トラック)が運んでくれるもので、早い時にはライダーがビバークについて間もなく到着することもあるが、場所によっては10時間遅れ、翌日に到着することもあり得るというもの。もうひとつはヘリで運搬してくれる10kgバッグ。これはほぼ確実に、ライダーよりも早くビバークに到着する。だから、ビバークについてすぐに必要なもの、テントにシュラフ、最低限の着替え、翌日分のコマ図、食器などはヘリで運んでくれる10kgバックに入れておく。20kgバッグのほうは、スペアパーツなどが主ということになる。合計30kgの荷物で、10日間のラリーをこなす。実際にやってみると、なかなか切り詰めた量になる。ライディングウェアの着替えは、まずあきらめなければならない。ほとんどのライダーが着の身着のまま、10日間同じウェアで過ごすことになる。いろいろやってみて、俺は靴下の替えを持つことをあきらめた。10日間、同じソックスで走るという経験は今までしたことがなく、ちょっと不安だったが、シグボトルに詰め替えたレミーマルタンのナポレオンを入れるためには、どうしてもシャツ2枚と、靴下3足をバッグから出さなければならなかったのである。
 カナダから来たスティーブ・ランドンは「くそー、バッグが小さすぎるぜ」と、何度も何度もバッグの中身を出しては入れして、結局、やはりほとんど着替えを放り出すことで折り合いをつけたようだ。 このホテルは、ヌフトというウランバートルの郊外にある。「007 私を愛したスパイ」に出てきそうな、共産圏の雰囲気が色濃く残る建物。共産圏の雰囲気ってのはなんなのか、と真顔で言われるとちょっとこまるのだが、なんというか無駄に重厚で、しかし細部の造りが粗雑で、装飾性に欠け、なんといっても面白いのは、空間的なアンバランスさ。異様に広い食堂があるかと思ったら、そういえばやけにロビーが狭いとか…。妙な居心地の悪さを常に感じさせて、で、お決まりの水色のペンキ。
 脱線した。モンゴルは今は民主主義の道を歩み、伝統文化の復興を目指している国だ。

ETAP-1 緊張と不安

 朝になっていよいよスタートだ。ウランバートルに到着したのは昨日なのだ。もし横浜でマシンを送り出す時に、完成した状態に仕上げていなかったとしたた、満足な状態でスタートすることはできないだろう。ホテルから30kmほどリエゾンを走って、郊外へ。そこがスペシャルステージのスタートになっている。俺は、途中何度もマシンを止めてICO(ラリー用トリップメーター)の補正値を修正した。SSのスタートまでにぴったりと合わせておきたかったからだ。朝の空気は冷たく、ジャケットを着ているにもかかわらず、身体が震えるほどの寒さを感じたが、日が昇るにつれて暖かくなるはずだから、心配はしていなかった。ラリーは、すぐに南ゴビに入る。そこは40℃を越すような暑さになるはずだ。
 いよいよSSが始まった。モンゴルは以前にも走っているので、そう緊張することはなかったが、不安はいっぱいだ。ハイスピードライディングが続くので、怪我が一番怖かった。絶対に転倒はしない。そういう走りをしようと心に誓っていた。前が見えないところでは、必ず速度を落とす。それを何度も何度も言い聞かせていたのは、前回、それでずいぶんと危ないめに遭っていたからだ。
 続いていると思っていた道が、突然足もとからすぱっと消えているということがよくある。運がよければ、そのまま着地するが、転落事故として大惨事になることもある。140km/hで走っていて、ちょっとした石を踏んで吹っ飛ばされることもある。わずかなオーバーランで、ラクダ草にぶつかってクラッシュすることもある。ウォッシュアウトに落ちる、タルバガン(マーモットに似た大型のげっ歯類)の巣穴で飛ばされる、馬にぶつかる、いろいろなアクシデントのほとんどがハイスピードライディングに起因する。そのスピードのなかで、いかに的確に障害物となるものを発見し、100%の割合で避けることができるか。気を抜いたら、本当に終わりだ。

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トリプルコーション

 このラリー最強の男。モンゴルのモータースポーツ界の英雄、ビヤンバ・ガントルガがスタートしていく。マシンは、KTM660Rally、最速の男が最速のマシンを走らせる、当然、優勝候補の筆頭だ。走りを見てびっくりした。ロクロクマルを全開でスタートさせる。スピードレンジが一段、いや二段も上だ。流石の池町佳生でもこれは勝てないと思った。池町のマシンはKTM450EXC-Rで、20km以上は巡航速度が違う。ガントルガは660のパワーを活かせる男だったのだ…。
 ところが、20kmほど行くと、シートの外れたKTM660の横にガントルガが立って「かまうな、行け行けと」合図しているではないか。マシントラブルでストップ。彼は、その日のビバークにこなかった。スタート直後にリタイア。がっくりだ。原因は、配線のショートによるCDIのパンクということだった。
 ところで、俺はというと、スタートして60kmほど走ったところで、早速、盛大にミスコースをやらかしていた。というか気がついたらミスコースしていた。この日のルートは、チェックポイントまでの200kmほどを一気に南下する。そこから大きく北にカップチェンジする(方角が変わる)のだが、わずかに西に向かい過ぎたようだった。「みんなはあっちを走っているんだろうなぁ」と思いながら、東の方向(つまり左手)を伺いながら南下を続けていると、運良くオンコースに合流した。50kmほどは、コースを外れて違うピストを走っていたことになる。あまりいいことではないが、この程度にルートを外すことは良くあるし、さほどのダメージにはならない。ただ、本当に注意しなければならないのは、コマ図を外れて走っている時は、危険な箇所(コマ図には段階的にシングルコーション"!"、ダブルコーション"!!"、トリプルコーション"!!!"として記されている)のインフォメーションがないうえ、万一クラッシュしても、後続の選手が発見してくれるという可能性がゼロだということだ。
 チェックポイントを過ぎてから、後半は、深いサンドのピストになった。俺のKTMはほとんどエンデューロ仕様と変わらないぐらい軽いマシンなので、余裕でライディングを楽しめるが、荒れた深いサンドは、2気筒のライダーにはなかなかタフなものだったろう。それに、ミニの連中はどうするんだ?  バヤンウンジュルのビバークはツーリストキャンプだった。ひとつのゲル(中国では包=パオと呼んでいる例のモンゴル伝統の住居)にベッドが2つ。シャワーもあるし、食事はレストラン。ちょっとしたホテルだ。まだライディングに慣れていないので、あちこち身体が痛い。シャワーを浴びて、早めに寝ることにした。
 夜半になって、数キロ離れた砂丘の上あたりにヘッドライトの明かりが見えた。俺はビールを飲みながらそれを見ていたが、何時間たっても近づいてこないが、きっとまだ戻っていないミニのクルーたちだろう。朝までに戻ってこれるといいのだが。

中編に続く

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