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ISDE BRASIL 2003の思い出 その1

BRAZILの間違いじゃないのか? という人もいると思いますが、BRASILです。

ぼくが初めてISDE(FIMインターナショナルシックスデイズエンデューロ)を取材したのは1994年のアメリカでした。その後、数年あけて、1997年のイタリア(ベルガモ)大会に行き、それから毎年通うようになりました。


いくつか学んだことがあります。

取材というのは、ただ行けばいいというものではなく、テーマを持って、調べて、真に取材して書くことが重要だ、ということです。

そうでなければ、ただ旅費と日数を無駄に費やすだけで、ほとんどなににもなりません。

ということを、身を持って経験しました。

現場に行くのも大事かもしれませんが、現場にいかなくても、ちゃんと取材することはできます。なんにも調べないで、現地のビールを呑むだけで、何かを経験し、取材した気になってしまうこともできますが、ただ眺めているだけでは、映像を見るのとかわりません。現地に行かなくても、いろんな方法で深く取材していいものを作ることはできます。

そうはいいながら、さすがに十数年も現場に足を運び、興味を持って見続けることで、得た者も小さくはないと思ってはいます。ただ、やはり、もっとしっかり取材すればよかった。あるいは、その時間を別のことに使えばよかった、という思いもあります。


2003年のブラジル大会は、ISDEが大きく変わり始めた、そのさなかで行われた大会だったと思います。ストイックで、あらゆる角度からライダーを試そうとするテストから、世界中のライダーが「楽しみ」として集まる6日間に、この頃は向いていったと思います。

転機は2000年のグラナダ大会です。


それ以前は、1周150kmのループを1日2周、というのが標準的で、参加者数は350名ぐらいが限度でした。グラナダ大会からは、1周200~250kmを1日1周だけ。500~600名を受け入れるようになりました。アンダルシア州の観光局も協力し、アフターライディングの楽しみをPRしています。

そしてブラジル。

しかし、この大西洋岸のビーチは暑かった。

スペシャルテストは砂丘、砂漠。日中の最高気温は軽く40℃を超え、海岸なので湿度も高く、熱中症の危険がライダーを襲いました。
イギリスのマット・ボーデンというライダーがその犠牲になったことを記憶しています。ISDEでは、死亡事故はとても珍しいということもあり、ISDEの住人はきっと彼の名前まで忘れていないはずです。もちろん、ご家族や友人にとっては永遠です。

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ステファン・エバーツが初めて参加したISDEで、今のところ最初で最後です(たぶん最後ですね)。サンドが得意なベルギーチームの一員として参加。エンデューロ界のトップライダーたちと接戦を続け、最終的に総合トップのタイムで優勝しました。ステファン・メリマン、ユハ・サルミネンといったライダーがライバルでした。バイクはYamahaのWR450Fです。エバーツはモトクロスの第一線から退いたばかりでした。父、ハリー・エバーツも6日間競技で活躍しました。ステファンは、ライダーとしての力量が衰えないうちに、オフロードスポーツの、もうひとつの大きなタイトルを狙いたかったんだと思います。

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