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「KTMのラリー哲学は6日間競技に発する」 ― エンデューロ日記013

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KTMファクトリーマシンとその市販バージョンであるRally Reprica、その存在が明らかにするフィロソフィーに触れる。


 ダカールラリーの38年の歴史の中で、2001年のファブリツィオ・メオーニによる初勝利から数えて18連勝。2020-2021はHONDAの後塵を浴びたとはいえ、製造者としてはYAMAHAの9回、BMWの6回、HONDAの7回を圧し、まさに砂漠の王者としての地位を確立しているのがKTMファクトリーチームだ。その強さは、20数年ぶりにダカールに復帰したHONDAファクトリーチーム(HRC)の総力を挙げての挑戦を幾度も退けたことで証明された。結局南米ダカールでも無敗。鍛え上げられたマシンもそうだが、ライダー、チーム力、ストラテジーすべての面で頂点の存在であると言っても、これを過大評価と言う者は無いだろう。だが、もちろん、ここまでの道程は平坦だったわけではない。

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660Rallyに搭載されたものと同型のLC4エンジン。HI FLOWヘッドと呼ばれる2世代目のパワーユニット。653.7cc、660RallyではデロルトではなくKeihinのFCR-MXφ38キャブ、ストレート排気に近いツインエキゾーストということもありよくパワーが出ていて、カスタマー仕様で65HP、ファクトリーマシンでは70HP以上と言われた。Mitterbauer H.



THE KTM WAY

 それ以前にも、プライベーターによる参加が、散発的に行われてきたが、KTMがファクトリーチームとしてダカールに挑戦を開始したのは1994年。KTMは、1991年の倒産というブランドとしての危機から立ち直ろうしている時期だったが、ハインツ・キニガドナー(KTMで84年、85年のモトクロス世界チャンピオンを獲得したオーストリア人。現在はKTMのエグゼクティブ)は、現CEOであるステファン・ピエラの協力を取りつけ、KTMとしてのダカールへの参戦を開始した。エンデューロモデルの620LC4をベースとしたラリーマシンを製作。ファクトリーチームはキニガドナー自身を含む5名のライダーと、メカニックが一人という小規模なものだったが、驚くべきなのは、この時すでに、プライベーターに向けたラリーマシンの販売と、希望すれば有料でラリー中のアシスタンスも引き受けるという「参戦パッケージ」の提供が行われていたことだ。
 これは、それまでの(あるいは現在も)の常識的なファクトリーチームの考え方とは根本的に異なるものだが、一方、KTMにとっては、ごく当たり前のやり方でもあった。ラリーも企業戦争である以前に、エンデューロと同じようにアマチュアが取り組み、誰にでもそこに挑戦するチャンスがあるスポーツだということであり、それまでHONDAやYAMAHA、またBMWが専らセールスプロモーションとして関わってきたものとは基本的なスタンスが異なっているといってもいいだろう。もちろん、だからといって、KTMによるラリーが経済活動とは無縁の行為だというのではない。スポーツとしてのアプローチからラリーに取り組むことで、エンスージアストの新たな支持を受け、再生への道筋にしようとしたのではないか。KTMのラインナップが、その後、LC4から、新型LC4、そしてLC8へと発展、ストリートモデル、トラベルエンデューロのアドベンチャーシリーズへと拡大して、一定の成功を納めてきたことと、ダカールでの成功は、振り返ればそこには明らかな共時性を見ることができる。新生KTMには、伝統の6日間競技ではない何かが必要だったということも言えるだろう。

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2003年ダカールラリー。ツインシリンダーのファクトリーマシン、KTM950Rallyをフルスロットルで走らせるファブリツィオ・メオーニ。LC8を搭載したこのマシンの最高速は215km/hをマークした。Soldano G.



サハラの勢力図

 1994年のパリ-ダカール-パリでは、プライベーターを含めて6名が完走するなど、ファクトリーチームの初参戦としては、決して悪い結果ではなかったが、KTMライダーの完走率は決して高くなかった。KTMが供給するラリーマシンは、すでに現在と同じように"Ready to Race"で、ロードブックホルダーまでがセットされたコンプリート。ヨーロッパのチームということもあって利用しやすく、すぐにKTMユーザーが増え、2輪部門のエントリーの半数以上をKTMが占めるようにまでなった。分母が増えた分、リタイア者も多くなるのは当然で、「ダカールのピストはKTMの残骸で死屍累々の様相だった」というジャーナリストもいたほどだ。もちろんそれは言い過ぎだが、しかし実際、1996年まで、KTMライダーのリタイヤ者は、全体の平均リタイア率よりも高かった。それでも、1998年になると、ラリー全体で55台が完走したうち、31台がKTMというスタティクスを記録。そして優勝こそステファン・ペテランセルのXTZ850に奪われていたが、2位から12位までをKTMが占めるというリザルトを出している。サハラの勢力図は変わりつつあった。

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BIGTANKマガジンは、年6回、偶数月に発行されるエンデューロとラリーの専門誌(印刷されたもの)です。このnoteでは、新号から主要な記…

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