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ジャンキー稲垣が走ったヒダカ 「語り継ぐべきもの」 No.248より


_tmのエンジン特性は下はマイルドでトラクションが良く、回すほどにいくらでもパワーが出てくる感じ

取材者として見続けてきたエンデューロ。ヒダカをライダーとして走る。稲垣正倫が体験した「初めてのヒダカ」、そのモノローグ。

<クレジット>
Text : Masanori Inagaki
Images : Satoru Ii

「何者か」になりたい

 僕はいま42歳なのだけれど、だいたい10年ほど前にとある編集講座に1年ほど通っていたことがある。僕ら編集というのはなんとも説明しがたい職業で、ざっくり言うと材料を集めてきてなんらかの形にする人だ。雑誌編集なら、立てた企画に最良なカメラマンとライターとモデルやなんやかやを手配して、取材の段取りをして、誌面の見た目をレイアウトするデザイナーと相談して最終的にページにする。とはいうものの特にオフロードバイクのメディアに関わってきた僕のキャリアは編集とはだいぶ離れていて、自分で写真を撮って自分で原稿も書いて、その素材を使って自分で編集する…、となんでも自分でやらされてきた。これは全然自慢できることでは無い。生半可な何でもできる、は専門的には何にもできないことと同義だ。どれも中途半端では、何者にもなれない。だから、そんな自分を変えたくて前述の編集講座に答えを探しに行った。
 今の僕は、その講座に影響されているものが多い。中でも最も心に残ったのは、第一回講義で使った「Extraordinaryになりなさい」と書かれた一枚のパワーポイントだ。Extraordinaryというのは「並外れた」などと訳されるのだが、それだけでなく特別性の意を含んでいる。「他の誰でも無い、何者かになれ」と講師は付け加えた。なれているかどうかは別として、僕はそれから「何者か」になれるように生きてきた。

 僕にとって日高ツーデイズエンデューロは、その生き方のコアな部分にある。その10年前より、さらに10年ほど前の学生時代には、ヒダカのレース映像をVHSテープで何度も繰り返し見ていた。その頃の少年稲垣にとってヒダカは、遠い国で行われているISDEとほとんど同じくらい遠い存在だった。いつか出たい、という思いさえ浮かんでこない夢の舞台。どちらかといえば少年稲垣にとっては、出るものではなくいつか取材してみたい檜舞台だった。
 その後大学を卒業し、オートバイ雑誌の編集者となって経験を積んだのち、ついにヒダカに取材者として毎年通うようになった。ヒダカを取材することでご飯を食べていきたいし、ヒダカを取材し続けていたい。いつか日高高原荘に飾られた佐藤敏光さんのような写真を撮りたい。僕も高原荘に大きく写真を貼り出されたい。いつかヒダカを心ゆくまで表現した原稿を書いて、みんなの心を打ちたい。日高モーターサイクリストクラブのみんなの心を動かしたい。エンデューロの素晴らしさを伝え、次世代に引き継いでいきたい。だが、そんなことで「何者か」になれるなどおこがましいことに、僕は気づかされることになる。

いつも外から撮影していたパルクフェルメに


tmとHTDEにはミカ・アオラの伝説がある。tmとHTDEにはミカ・アオラの伝説がある。そのマシンで初めてのヒダカに挑戦するヨロコそのマシンで初めてのヒダカに挑戦するヨロコビ


そのヒダカに出る

 自分にとって表現対象であり続けたヒダカだけれども、出てみようと思ったきっかけはなんだったのだろうか。今となってはもう思い出すことができない。この3年くらい真面目にバイクに乗ったり筋トレをするようになって自信が付いたことや、10年ほど続けてきた取材を後輩の伊井君が十分にこなしてくれるようになったことも理由のひとつだと思う。これまでIBでレーサーを駆ってきた60代コンビの安喰好二さん、田中弘行さんコンビがXR250Rで出るとか、優勝争いをしてきた鈴木健二さんがマーシャルとして走るとか、ひと昔前とは世代が変わったヒダカを見て、僕自身もバトンを渡したいと思ったのかも知れない。
 参戦するバイクはすぐに決まった。いつになくバイクに対してストイックだったヒダカ前の僕は、しっかり乗りこまないとその良さがわからないと言われているtmで参戦したいと思った。1999年、VHSで何度もみた映像の中では故ミカ・アオラがtmでとんでもない走りをしていたから、それに憧れたのもあった。tmを輸入販売しているうえさか貿易の梅田さんに相談すると、二つ返事でEN250 ES Fi 4Tをお借りできることになった。8月にイタリアで試乗してきたばかりのマシンだ。ビタッとマシンにはまれば最高のヒダカになるだろう。ならなければ、僕の責任だ。
 ところがビタッと"体調"がはまらなかったのである…。ヒダカ行きのフェリー出航1日前にKTMのメディア試乗会があったのだけれど、ここでの僕の体調は最悪。身体はだるいし、お腹はずっとひどく下したままだ。なんとか試乗会でのインプレ取材は終えたものの、フェリーに乗ってもまったく回復せず、現地に着いてからもコースの下見もほとんどできずに終わってしまった。下見中に何度お花摘みへでかけたことか!


これだよこれ!
最高のヒダカ

 ヒダカに来る前には、これまで何度も偉そうなことを誌面に書いてきたのに、オンタイムのルールをわかってなくて凄いミスしたらどうしよう…とか思っていたのに、スタート前にはキャメルバッグに忍ばせたティッシュペーパーが足りるかどうかが気になってしょうがなかった。そんな僕の心配をよそに、同じスタート組になった天野潤さん、松田俊彦さんは楽しげだった。ハスクバーナ川崎中央に通う友人同士なのだと言う。僕も含め「ヒダカはじめてなんですよ」と口を揃えるビギナー組だったが、天野さんはだいぶ走れるらしく、スタート早々にさっと林道の奥へ消えていった。

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