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日本語教師日記164. 昭和の日本語教師の営業

昔むかしのことじゃった・・・

ある日、外での授業が終わって、同僚とお茶をしていて、
二人は顔を見合わせてため息をつきました。

「生徒見つからないわね」
「やっぱり、個人では無理ですね」

駆け出しだった私が言いました。
「渋谷の交差点に立つとね、いつも思うんですよ。
ああ! こんなにたくさん外国の人がいるのに。
この中には、素敵で綺麗で教え上手の日本語の先生に会いたい、
(なんなら私のこと?)
と熱望しても、出会えてない人がいるわけですよ」

「そうねそうね」

「だけどまさか、適当にアタリをつけて誰かを捕まえて、
『もしもしあなた、私から日本語を習いませんか?』
なんて言えないじゃないですか」

「そりゃそうね」

はぁぁ・・・

はぁぁぁぁ・・・

嘆く二人でした。

私たちは、個人の生徒を獲得することが、ほとんど紹介に限られていた時代の日本語教師。
年がばれますが、「日本語教育能力検定試験」(略して「日教」)も、
存在さえしていなかった太古の昔に、日本語教師になったのです。

電話は、「固定電話」という言葉もなかった。
だって、携帯がないから、区別する必要がなかったから。
連絡は、テレホンカードを使って。
それも、学校や家から、「ポケベル」で呼び出されて、
駅の緑の電話からするものでした。
そうあの、TTM、東京テレメッセージですよ。

仕事といえば、日本語学校に時間講師として所属するのが普通。
生徒の少ない時にはコマを激しく削られ、
逆に多くなると問答無用で夜討ち朝駆けをさせられていた、
本当にしがない駆け出しでした。

常勤ではありませんので、朝1コマ・夜2コマ、などというレッスンの入り方はザラで、
時間を潰すのが本当に大変でした。

重いバッグには、日比谷図書館の地下食堂で食べるために 朝作ったお弁当や、
紙の和英・英和辞書、小さいホワイトボードにマーカー、ペンケース、
厚いのが普通の日本語の教科書を何冊も持っていくと、
重くて背中が側湾して危険なため、チャプターごとに切り離したものが何篇か。
財布、最小限のメイク道具、ポケベル。
これだけ詰め込んであるので、とても重いです。
電車で座れない時は、すぐ床に置きました。
今なら絶対キャスター付きのバッグを引っ張って歩いていたと思います。

「そうそう、tamadocaさん、営業の方、やってみた?」
「はい、やってみましたとも」「どうだった?」
「全く駄目でした。惨敗です」
「そうかぁ・・・」
「だからと言って、渋谷の交差点で・・」

って、話が戻っちゃってますけど。

インターネットがなかった時代、携帯電話がなかった時代って、
やっぱりちょっと、今は想像できませんね。

私たちは、個人で教えている知り合いの日本語教師が引退するとか、
海外に引っ越すときに、生徒さんを紹介されるという方法で、
たまにプライベートレッスンを始めることがありました。
中には、有料で同僚の教師に、自分の生徒を譲るという猛者もいましたが、
私はちょっと、考えられなかったですね。
生徒が知ったらどんな気がするんだろう、と思っていました。

ストアカとか、カフェトーク、noteなどを通じての出会いなど、
想像もできなかった時代でした。

私は、広尾にあったシナゴーグ(ユダヤ教の教会)、
六本木のフランシスカン・チャペルセンター、
表参道の東京ユニオンチャーチなどを訪れてみていました。
自分で「富士通のOasys」で作ったチラシを持って。
Oasys、実家のどこかにあるのかしら。
てっぺんが開いていて、インクのカセットを嵌めて、
紙をキリキリ言わせながら挟んでプリントするOasys。


手作り感いっぱいの私のこのチラシを見て、
ぜひこの先生様に日本語を教えていただきたいものだ
と思ったお方に、
ちぎって持って帰ってもらえるように、自宅の電話番号を、
タコの足みたいに切り込みを入れたところへ書いておきました。

これが全く駄目でした。
考えてみたら、東京アメリカンクラブも含めて、
あげます・くださいのチラシや、
まもなく国へ戻るのでさよならセールをします、
というようなお知らせのほかは、お金がかかるような情報は、
貼ってあっても一顧だにされなかったのかもしれませんね。

手も足も出ないまま、いつかは独り立ちしたいと思って過ごしていた、長い年月でした。
職業がえをするつもりはありませんでしたが、正直、ちょっと将来を悲観しておりました。

次回は、令和の日本語教師の営業です。

サポートしていただけたら、踊りながら喜びます。どうぞよろしくお願いいたします。