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日本語教師日記165.令和の日本語教師の営業

昭和の時代、私の属していた日本語学校も、生徒にたくさん来てもらうためにはいろいろ苦労していました。

学校から頼まれる授業は、学校の教室でのクラスレッスンはとても少なく、あっても夜遅い時間が多かったです。
レッスンが混み合っている時間帯は、会社の就業時間前の朝7時か8時開始、次が、会社の昼休みとアフターファイブ。
夜に学校でのクラスレッスンが入った日は、くたくたになっていました。

クラスの立て込む時間帯以外の長い待ち時間に、一つでもプライベートのレッスンを入れられればとても助かるので、前回書いたように頑張ってみましたが、本当にうまくいきませんでした。

そこで、私はしばらくの間、印刷会社の外注として、ワープロ入力を請負っていました。5インチのフロッピーディスクというのでしたっけ、CDと同じような直径のFDが黒い紙のケースに入っているのを持ち歩いて、印刷会社のある駅の改札越しに営業の人に手渡したり、公衆電話で校正の内容を聞いて書きとったりしていました。
そんな、頭の切り替えの難しい、いやにバタバタした時代でした。

日本語教師と、ワープロオペレーターの他に、エージェントに所属して、世田谷区内の公立学校での仕事もありました。帰国子女の取り出しクラスの日本語授業と、小学校の外国人の保護者向けに学校公開時の通訳や、先生方と保護者との相談会の立ち会いというようなことをしていました。

元号が平成となり、令和の世の中になってみると、全てが本当に変わりました。
まず、東京を離れましたので、それまでのプライベートレッスンの生徒はもちろん、通訳の仕事、日本語学校とエージェントからも離れることになりました。

名古屋には外国の方が多いと思っていて、人からも、
「いくらでも生徒さんが見つかるでしょう」
と言われてやって来ましたが、名古屋は製造の街で、駐在員とその家族という形で住んでいる人は意外に少なかったです。

一番頑張ったのは、引っ越してきてすぐの1、2年の間に、副業でHP作りをしていた人に依頼して一度、次に自分で無料のツールを使って一度、HPを作ってみたことです。
何もしないよりはという気持ちで始めてみましたが、解らないことがわかるようになっていく過程は面白かったです。検索の10ページまで見てみても、姿形も出てくるはずのないホームページですが、愛着があります。
今 覗いてみたら、今よりずっと若い自分が気取っている写真が載っていたりして、笑いました。荒野の一本松みたいな寂しい可哀想なHpですが、生徒を紹介しましょうという人が、それを生徒候補の人に教えてくれたりします。
大きい名刺というところですね。

名古屋時代は、紹介された生徒さんが、とんでもない遠くであっても、ありがたく教えに行ったり、名古屋は家賃が安いですので、ワンルームアパートを自宅の真ん前に借り、グループや個人の生徒さんにはそちらに来てもらうようになりました。もう二度とできないことですから、いろいろ経験したのは良かったと思っています。

オンラインレッスンは、名古屋に引っ越してすぐの2011年の春から、手始めに、それまでプライベートで習ってくれていた人に声をかけ、少人数ではじめました。
 ITの仕事をしていた夫に助けられ、ヘッドセットその他を一つずつ揃え、当時はSkypeぐらいしかビデオ会議のツールはなかったのですが、教師と生徒のどちらかに問題があって、画像や音声がよくなくて苦労したりしました。途中からPCはやめ、iPadとキーボードで教えるようになりました。

営業的なことは、前述のホームページ作りと、名刺やチラシをカフェなどに置かせてもらうぐらいでしたが、そのときにいる生徒たちを大事にという気持ちで低目安定で続けて来ました。

その昔には、生徒の途切れるのが心配で、無茶なスケジュールを受け入れていたり、自分でいろいろ生徒募集に苦慮してみたりしたのですが、今は現状維持ができればいいと考えています。


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