見出し画像

エッセイ526. 私の観たのは何だったのかー「七夕喜劇まつり」at 新橋演舞場

今日は、ご興味がない人には全く面白くない感じになりますので、ごめんなさい。


芝居好きの友達が、急に行けなくなったチケットをくれました。
新橋演舞場七月公演  七夕喜劇まつり、昨日行ってきました。


私はこれを、200%、「松竹新喜劇」と勘違いして観にいきました。

宝塚 vs 松竹歌劇団

吉本新喜劇 vs 松竹新喜劇

という組み合わせて頭に持ち歩いているそのままに、勘違いしたのでした。

そもそも、藤山直美さんのお父さんが、松竹新喜劇の看板スターだったので、直美さんがその後を継ぎ、座長として松竹新喜劇の公演を打っているのだと思ったのです。

子供の頃から街角や銭湯の壁に貼ってあったのは、松竹新喜劇のこのようなポスターでした。



昨日私が観てきたのは、松竹新喜劇ではなかったのです。


11:00〜11:40am が第一部「唐木(とうぼく)の看板」。

その後、40分の休憩を挟んでいよいよ藤山直美さんの出演する、
「はなのお六」
これが、2時までですから約1時間40分の長丁場ですね。

第一部が始まってすぐ、これは松竹新喜劇ではない、これは、松竹とタイアップして、全てを歌舞伎仕立てにしたオリジナルなお芝居なのであることに気づきました。

まず背景の景色も歌舞伎の舞台に近いですし、両側に少しだけ、黒御簾(くろみす)が見えます。これは、下座音楽と言って、三味線と鳴り物を中心に、擬音・効果音用の全てのものが演奏者と一緒に収まっている、歌舞伎の世界のオケピですね。

そこからクドキ(演者の語る独り言部分)となれば、チン・トン・・・と、いつもの物悲しい三味の音(ね)。

歌舞伎の馬も出ますし、船を漕ぐ時には

やっしっし、しし やっしっし・・

という独特の掛け声が出ます。

花道に照明が当たり、期待した観客が振り返ると、鳥屋(とや)に通じる揚げ幕が、チャリンと、小気味よい音を立てて開きます。

これ、歌舞伎だぁ・・。

久しく遠ざかっていた歌舞伎に、予想もしないところで再開した感じです。

チョーン! と乾いた音を響かせる 柝の音(きのね)
演者の動きに合わせ、あるときはバタバタという足音や、
見えを決めるときに寄り添うように強く打つ バッタリ・バタバタ。
暗闇であるという設定で、
人物たちがスローモーションで動いて見せる「だんまり」

全て歌舞伎です。

この公演では本家の歌舞伎と違い、女性も出ますし、歌舞伎役者ではない役者さんたちも大勢出ます。
でも、歌舞伎役者さんたちは、やはり一段違う・・。

直美さんの人を食った演技も、テレビ以外では初めて観ましたが、がっちりこっちのハートを鷲掴みにする巧みさ。
追っかけ決定しました。

新橋演舞場を出て、3時半からのレッスンに間に合うべく、急いで東銀座の駅に戻りながら、目の前にある歌舞伎座を目にして、
(ああまた歌舞伎を見ようかな・・)
と思いました。

私が歌舞伎を見始めた大学生のころでも、

助六の傘の内側の糸を張る職人がもうすぐいなくなる、
大向こうへの掛け声も下手くそになった、
チャリンを上手にできる人がいなくなりそうだ
このままでは歌舞伎は博物館入りになってしまう

と心配している声がたくさんありました。

そのあと、歌舞伎ブームと言われるものが来て、コミックが歌舞伎になったりしています。
公演も三部制となり、高いのだが、狂言がどうも薄味。

これ、どうなのかな。
なんとなく、歌舞伎を見なくなってしまいました。

私は、梨園の御曹司だけが脚光を浴び、お弟子さんや三階さん、国立劇場の研修生さんたちはずっと縁の下・・というのが、良いとは思っていませんでした。
だから女性が出るのも、子供の時から修行したのではない俳優さんが出るのも賛成です。

伝統のあるものを受け継いでくれる人が少なくなっていくのも、それはそれで仕方がない、昔あった仕事が存在しなくなるのは、全ての面で同じだと思っています。

博物館入り扱いにして、できるだけ歌舞伎を保持するのも大事だと思っているわけです。


ただ、ただね!
すいませんが、面白いのをやって!


河竹黙阿弥の白波もの。
極悪人なんだけど、その悪の華の美がすごいし、悲劇性も、悪を極めたところにあるカタルシスも。
青砥草紙花紅彩錦画   あおとぞうしはなのにしきえ   弁天小僧ですね。
三人吉左巴白波  さんにんきちざともえのしらなみ
とか。

日照りをもたらしている上人を誘惑して落とすためにお上から派遣された美女が、本気が嘘かわからないあれこれで見事カタブツの坊さんを誘惑してのけて・・という「鳴神」とか。
エロな場面がいっぱいです。

忠臣蔵の長い長いお芝居の中でも、切ない一幕。
祇園一力茶屋の場
けなげなお軽に、涙々・・。
とか、

極め付けは、長い長い(昔の歌舞伎は夜明けから暗くなるまで飲食しながら見続けたそうですが)「義経千本桜」の、親を慕ってついてきた小狐の精の可愛さ、望みが叶って宙を飛んで帰っていく、有名な「宙乗り」、とか。
私はこれを、今の猿之助が名古屋御園座改築時の最後の公演で見せてくれたときに、飛んでいく狐のほぼ真下で見て、散りまくった桜の花びらを拾って家宝にしています。

歌舞伎を知って何十年経っても、本当に面白かった芝居は繰り返し見たこともあってよく覚えていますし、書いていても胸がどきどきしてきます。

誰が見ても面白いに決まっているものを、
そんなに仕込みに費用がかかるわけではなかろうに、
なぜにやらないのかしら。

毎月、今月は観に行こうかなと思いつつ、
この狂言ではねぇ・・
と見送っています。
惜しいことです。

新橋演舞場から帰りながら、思いました。

今日のような公演を見る客層って、どう言う人なんだろう。
歌舞伎を知っていたらより面白いけど、渋いと言えば渋い。

歌舞伎を見ることがある人が、
あれを噛み砕いたような、難解すぎない喜劇を、
歌舞伎仕立てで見せるのに対し、面白さを感じて固定ファンになる、
そういうことなら、それはわかります。
でも、歌舞伎の観客そのものが、今はものすごく少ないでしょう。

全く歌舞伎を見ない人は、あれを見てどう思うんだろう。

例えば、白塗りの殿様の市村萬次郎が出てくると、藤山直美さんが、

「あーびっくりした、うずら卵かと思った」

と言って笑いをとるのですが、あのような白塗りや、
様式化された独特の動きや声の張り上げ方、見得の切り方。

これは、歌舞伎ってこういうものだと思って、
慣れていたらなんとも思わないけれど、
いきなり見たら、違和感は半端ないのではないでしょうか。

いまもよく歌舞伎を見に行っている友達によると、
歌舞伎座や国立劇場の歌舞伎公演では、
笑うところではないところで笑いが出たりするそうです。

つまり、馴染むまで、ちょっと大変、
お約束ごとに満ちているから・・というのが歌舞伎だと思います。

こういう感じのお芝居を、初めて見にきて、好きになる人はいると思うけれど、
本当にどういう客層なんだろう。

チケット争奪戦もなさそうだし、巷であまり話題にもならない。

そして、観客の年齢層が、結構若い人から年配のかたまで、
まんべんなくいるのです。

どうも不思議。
見続けていればわかってくるかもしれないから、また行くつもりです。

チケットをくれた友達よ、ありがとう!

サポートしていただけたら、踊りながら喜びます。どうぞよろしくお願いいたします。