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〜Dave物語❷〜

Hello everyone🙌

少し時間が空いてしまったが、前回に引き続き自己紹介!今回は高校について書いていこう。

中学期にも少しかぶるが、高校の進路選択ではいくつかサッカーの方で推薦を頂いてそのいくつかの高校の中でずっと迷っていた。私立の高校からも何校か声をかけて頂いたがどうしても授業料+寮生活となると返事には迷いが出ていた。両親は『何も気にすることない。裕介が行きたい道、やりたいことを選びなさい』と背中を押してくれた。優柔不断な僕は、毎晩ベットで悩み最終的に自分の意思で声をかけて頂いた地元の公立高校に決め入学をする。実はその高校には、入れ違いではあるが姉も通っておりサッカー部のマネージャーとしてサッカーに関わっていた。

新たな生活が始まった。電車での通学に商業や中国語の授業、行事等の全てが新しく新鮮だった。サッカー部に入部した僕は恩師に出会い充実した部活&学校生活を送る。マネージャーとしてチームの一員として戦った姉は新人戦で県ベスト4、インターハイ予選と選手権県予選でベスト8という輝かしい成績を経験した。鹿児島県の県大会準決勝からは鴨池陸上競技場(現在は白波スタジアムに変更。またJ3で戦う#鹿児島ユナイテッドFCのホームスタジアム)で試合が行われていた。そこは鹿児島県高校サッカーの聖地とも呼ばれていた。姉はベスト4を経験したものの改装工事のため鴨池のピッチに行くことはできなかった。

『姉ちゃんたちが出した成績を越して、鴨池でプレーする』

というのが僕の3年間の目標となり部活動に励んだ。中学までとはパワー、スピード、技術が全く違い圧倒されてついていくので必死だった。入学してすぐリーグ戦が始まり途中交代で出させてもらったり、メンバー外でチームのサポート後トレーニングマッチをしたりと上手くいかずもがく日々が続いた。そしてGWでは初の合宿に参加した。しかし、初日の試合で相手との競り合いで相手の歯が頭に当たり出血し病院で縫うことに。インターハイ予選前ということもありなのもアピールできない自分と試合に出る同級生を見ると悔しさがこみ上げてきた。ボトルの片付けをしていると監督から『あいつらがチームになれていくの見てお前悔しいやろ』と言われたのを今でも覚えている。インターハイ県予選には途中出場できたものの2回戦で私立の強豪に敗戦。三年生が引退するまでレギュラーにはなれなかったが、高校サッカーというものを学び、たくさんのものを吸収できた一年だった。

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月日とともにサッカー部でもいろんなことがあった。当たり前のことである学生の本業学習面や学校生活の見直し等。また、部活動を様々な理由で辞める人もいた。ちょうどその頃僕自身も山口県での遠征で大差の全敗で心が折れかけサッカーと向き合うのが嫌な時期もあったがやっぱりサッカーが好きだった。しかし、チームとしてはどん底の状態が続きクラブチームへの移籍も考えたこともあった。そんな時両親は『周りの人じゃなくて自分』また普段からたくさんの刺激を受けていた友だちから『どんな状況であれ自分で決めてきた高校でしょ。やりきれ!』と言われどんな状況でもレベルアップのことだけを考え自主練に励んだ。

三年生になり、チームも立て直しチーム一丸となってラスト一年に臨んだ。しかしインターハイ予選4日前にあった地区大会にて相手GKとの接触にて怪我。右足首が今までないぐらい腫れあがり歩くことすらできなかった。すぐ病院で治療を受け固定をしたが夜に再び寝る事すら出来ない激痛があり父と病院へ行ったところ内出血がすごく注射で血を抜いた。僕はとにかくドクターに治してください。とお願いすることしかできなかった。結局大会当日も松葉杖なしで歩く事すらできない状態でサッカーどころではなかった。めちゃくちゃ悔しかったが大会に向けてまとまっているチームメイトや声をかけてくれる友だちにはいつも通りの姿を見せるように心掛けた。どこにもぶつけられない悔しさの矛先は自然と家となり家族、特に両親には迷惑をかけた。大会前日もプレーできない自分を受け入れることができずに『痛み止めを打って、テーピング巻いて出る。この先サッカーできなくてもいい』と泣き叫んだ。父ちゃん母ちゃんに八つ当たりしまくった。本当にごめんなさい。そして支えてくれて本当にありがとう。

鹿児島市内にある大きな病院で診察を受けた結果、くるぶしの骨に行くつかのヒビが入っており手術をしても完璧に直すのは難しいと言われた。この話を母と聞いた時、頭が真っ白になり病室から走って逃げ出したい気持ちだった。家族そして監督と話した結果固定をして治す方法を選んだ。平常心に戻るまでは少し時間はかかったが、たくさんの想いが入り混じる中今自分にできることを考えるようになった。プレーできない期間は最高のマネージャーを目指しチームメイトが少しでもいい環境でトレーニングできるように道具や飲み物の準備、声かけなどたくさんした。真夏の合宿ではタイムスケジュールを管理したり少しでも冷たい飲み物を準備するためボトルを保冷シートで囲いアレンジした。このころはチームメイトからの『ありがとう』の言葉が自分の励みでもあった。それと同時に競技復帰への自分のリハビリにも取り組んだ。試合やトレーニングの時間はチームのために動き、それ以外で自分のリハビリ時間を作り続け1歩づつ前に進んだ。MGとしての仕事は決して楽なことではなかった。特に対戦相手のスカウティングをするために自分の高校のシアすら見れないこともあった。チームのためとは分かりつつも悔しさがあった。

リハビリやトレーニング復帰、短い時間の試合出場を繰り返しながらフル出場できたのは11月の高校サッカーの集大成選手権県予選。この怪我によって悔しい思いを人一倍したがその分成長し強くなった。そこには間違いなく家族をはじめ監督、チームメイト、友だちのサポートがあった。しかし、僕の試合の応援を週末の楽しみにしていた両親や祖父母には申し訳なかった。

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恩師である監督からはたくさんのことを教わった。一つは親より先に死ぬな。それが最高の親孝行だ。これは監督が卒部生を送り出す時に言う言葉だ。また、日常生活とサッカーはつながっている。普段の生活がピッチ上のプレーに出てくると。当時は厳しいと思っていたが、社会に出てから言われていたことを理解できるようになった。3年間毎日書き続けた『俺のサッカーノート』は宝物だ。サッカーのことだけではなく、日常生活含め1日を振り返り最低でも1ページ、多い時は2、3ページ書いた。自分を振り返る大切さ次にどう生かすか全てを学べた。

学校生活でも全てにおいて積極的に取り組んだ。そこには、上にもあるように監督から教わった日常生活をチーム全員で変えサッカー部が学校を引っ張っていこうと決めていたからだ。体育祭での応援団長に年間で一番大きな行事デパート祭での営業部長、フリーマガジン制作とできること全てやった。この経験が今の自分につながっているし今後の自分の可能性を広げていく。

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足の怪我は現在でも骨は元に戻っていない。疲労や衝撃によって痛みが出ることもあるが、サッカーを続けるために普段のケアを欠かさずやっている。そして日本に帰った時には恩師と連絡を取り2人で飲みに行き近状報告や昔話を楽しんでいる。

長くなったが、この文章から分かるように充実した高校生活だった。この3年間の経験があったから今の自分がある。みんなに支えられた高校時代だった。僕は卒業式前に同窓会への加入を代表してさせてもらった。節目の年に同窓会を開きみんなで笑って話せる日を楽しみにしている。

ついてる!ついてる!俺ならできる!やればできる!絶対できる!やってやるぞ! スーパーハッピー✌️✌️ハイッ‼︎‼︎

ありがとう

Thank you for reading(^_^) See you next time👋

Yusuke Dave

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