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あらゆるものを飲み込んで生きていけ

 「はいくそ、はいゴミ。もうくそ、ほんとにくそ。あーくそ」これは僕のお気に入りの罵倒フレーズである。相手を罵倒するほどの語彙力もなく、度胸もない僕は脳内で「クソ」と「ゴミ」を連呼する。

 生活していると、自分の感情に折り合いをつけてグッと飲み込む事が必要になる場面がある。その際に必要になるのは、自分の感情を言語化することである。なぜならば、言語化すると物事を飲み込みやすくなるのだ。つまり、感情を言語化するという作業は、物事を飲み込みやすいサイズに小さく切り分けることである。それはまるで咀嚼である。

 僕達は毎日物事を飲み込むために、感情を言語化するという咀嚼活動を絶え間なく行なっている。ただし飲み込む能力が高い人間は言語化作業が少なくて済む。僕の父がいい例だろう。父は深く考えない、いや本当は深く考えているのかもしれないが、深く考えていないように見える。父に「なんで?」と理由を3度尋ねると、「そんなことまで考えないといけないなんて、理系の奴は面倒くさい」と返ってくる。「なぜ人は生きるんだろう、なぜだと思う?」と質問すれば、「そんなこと考えるくらいなら、畑で草むしりをして汗をかきたい。」と返ってくるのだ。知的労働に憧れが集まるこの現代において、そこまで言い切れる父はなんとカッコいいのだろうと心の底から思う。おそらく、父は物事を飲み込む能力が死ぬほど高いのだと思う。先天的なものか、後天的なものかそれは分からない。一方僕は、飲み込む能力が高くない。それどころか年々物事を飲み込む能力が低下している。嚥下能力の低下、まるで老化現象の一種のようである。父の嚥下能力が遺伝すればよかったものを、、、、なんて思わなくもないが、悔やんでも仕方ないので言語化能力を鍛えるしかないのだ。絶え間なくモグモグと咀嚼を繰り返す。周りを見渡せば、言語化能力を鍛えるための広告がたくさん目に飛び込んでくる。やれロジカルシンキングだの、やれ自己分析だの、みんな物事を飲み込むことに苦労しているように見える。もしかしたら今必要なのは、小さく切り分ける方法ではなく、嚥下能力を鍛える方法なのではないか?と考える正月であった。

 なぜこんなことを考えているかといえば、今度生まれたらという本を読んだからである。70歳になった女が人生を振り返り、苦悩し葛藤する本である。僕らは老人や赤ちゃんを純粋無垢な人間であり、悟りを開いてる可能性さえある者だと思いがちである。ただこの本の主人公は、70歳になろうとしているのに、嫉妬し、生き方に悩みうじうじグダグダしているのである。飲み込み能力が非常に低い。その女が自分の人生を飲み込むために、言語化していく過程が面白かった。

 僕は本を読むことが好きであるが、読んだ本を覚えておくことは苦手である。ずっとやりたいと思っていた読書記録がこれである。今年は30本ぐらいは読書記録を残したい。


よい曲を作り続けます