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生きることは目的か手段か?

生きることは目的か、手段かという問。

 現在僕は生きること自体を目的とできず、しかし生きる目的は不在という事態に陥り気に病んでいる。目的が無いと漠然と虚無を感じる。お門違いなのは分かってはいるが、目的無しには生きられない時代を恨み始める始末である。原始時代を生きる人たちのように、生きるだけで最高、生きる事こそが目的でありたいものだ。

 話は発散するが僕の人生の目的は、好奇心を満たすことであった。人生を楽しむために唯一必要なものが好奇心。知ることを刹那的に楽しむ余裕が人生を豊かにするのだとたかを括っていた。そのため、好奇心がどこから生まれてくるかは考えていなかった。それは当たり前にようにそこにあるべきものだし、無くなる事は死を意味するとさえ考えていたのだ。だからこそ、好奇心が消失した時に何をして良いのかわからなくなってしまったのだ。何故なら好奇心がなければ、どうして好奇心が無くなってしまったのかという問を持つことすらできないからである。

 ということは裏を返せばやはり、生きる事は手段ではなく目的なのではないか。そうあって欲しいという思いが心を占領する。しかし、そうは思えないからこそこうやって思い悩むのである。

自分は大いなる存在の一部であり、大いなる存在の目的こそが自分の目的とすることもできよう。「人類という種の繁栄を、個人の生きる目的にすり替えることはできるのでは?」ということだ。結論として出来ないと考えている。自分が全体の一部であるという概念は理性的に後々自覚するのであって、原始的な虚無感の発生を防げない。理論が虚無感を覆い隠すことはできても、無かった事にはできない。だから対策としては、全体ではなく個人を主役にした解決方法が必要なのではないかと思う。

 何も解決しない支離滅裂な文章ではあるけれど、確かにそう思い悩んでいる自分がいるということで、記録としてここに置いておこう。

よい曲を作り続けます