Nier:Automataの工場シーンについて

注釈として本稿はNier:Automataの1週目エンディング、通称Aエンド完了を前提として記載します。またその他DoD系統の内容や、Nier:Replicantに関する情報はありませんし含めません。
そして日本ではかなりセンシティブな内容を取り扱い、幾つか私の意見も含まれますが、敬虔とまでは行かないですが同じ宗教家として、演出された内容を把握すべきであり、演出中に使われた言葉だけで俗に言う「日本人フィルター」が掛かった状態のまま見てしまうのは大変勿体ないという気持ちから記載していく。
以上の内容にご了承頂けた場合のみ、読み進めてください。

大前提としての希望とコミュニティに関して

まず希望に関してだが、「まれ」であることや「薄い」を意味する「希」を望むことから希望の二文字になる。これは端的に複数の絶望に囲まれた上で見出した解決方法を希望と呼ぶ、という認識の方が正しい。飽くまでも私の人生の物差しでしか使えないが、4:1の割合というおとぎ話基準を用いたいところだが9:1が現実的な気がしなくはない。無論数字が多い方が絶望になる。また希望と絶望の厄介なところは、絶望の数が多ければ希望の信頼性が保証されるとは限らないし、何なら有効な相関関係があるとも限らない。
次にコミュニティもとい共同体に関して、昨今の令和的感覚ではその実態が掴み切れない可能性が高い。また閉鎖的なコミュニティにばかり目が行きがちで悪い点ばかり脚色されるケースがそこら中に転がっている。例えば近所づきあいでのマウント合戦だとか、意思決定権が無く婚姻が結ばれたりだとか、長男が工場を継がないといけないだとか。俗に言う「リベラル」または「個人主義」の正反対ではあるが、ある程度の意志決定権は他人に譲渡されており自分が責任を全て追うとは限らず、またそれの成功だけでなく継続的な観測も含めたお膳立てをされることもある。またそういう高い関与率の話だけでなく、日本で言うところの国民健康保険も立派な「日本コミュニティの恩恵」に含まれる。
この二つが組み合わさると何を意味するのか、コミュニティ内で判別した絶望を皆で共有し共同体全体で解決することを命題とする。どれほど共有されるかは役職や地位によって異なるが、この命題と責任とタスクはコミュニティ管理者によって振り分けられる。なので個人主義者からすると、絶望も希望も他人の干渉が大きく加わった、ある意味演出された内容になる。だが演劇を見てる最中に大体の内容を察知して逃げることもできなければ、コミュニティ内で築いたアイデンティティを喪失することもできない、文字通り全てを失う覚悟が無ければ。

Nier:Automataの工場宗教に関して

Nier:AutomataのAエンドの直前にてパスカルと共に、新コミュニティである工場の宗教コミュニティに赴く。司祭が居り教祖が居り神が居ることになっている。また平穏をもたらすとのこと。ただし教祖の頭パーツが零れ落ちた途端に「カミになった!」と教団全体が歓喜し、教祖のタヒを経て皆もタヒという平穏を迎え入れる準備ができる、という宗教内容になる。

機械ならではの感性

もし「タヒ=平穏=救済」であるならばもっと早い段階で起きなかったのかという点だが、恐らく「タヒの世界」の統括者が必要である点と「タヒ」の概念を把握しきれておらず為政者が必要と考えているため教祖という現実世界の為政者が先に赴くことで皆を向か入れる準備が出来る、という思想の元で統制を行っている可能性が高い。
順序に関しては納得いくが「タヒ=平穏=救済」の数式が成立するのかというと「平穏とタスク実行」が反対関係にあるからではと思っている。この「タスク実行」に関しては若干プログラミング要素を含めている。
というのも「タスク実行」の中にはアイドリング(待機状態)やメンテナンス等判りやすい内容もあるが、以下の内容等を含めるととても不穏な内容になる。
①実行権限が無いので、どこかで止まる工程のタスク
②実行可能だが設定された値が非現実的な数値
③環境が存在しないためタスクが実行されない
この例題を機械生命体の日常とかに当てはめると
①オイルをバケツで組みたいが、バケツを借りる権限がない
②ネジを回す回数が1億回
③真水を汲みたいが、海水しか存在しない
従来のソフトウェアプログラム等ではこれら①②③を自動で止める機能や代行者を用意することで、タスクの取り消しやタスク遂行条件の更新等ができるが、機械生命体たちは自身達を拡充し続けているので定まった規約と対処療法的なことができているとは限らない。それを象徴するかのようなゴツゴツのフォルムがあらゆる環境にあることと、敵であるアンドロイドを討伐するためだけにしか変形しない様子から伺える。これを人間用の言葉で置き換えるなら機械生命体は生活に向いていないのだ。
また機械生命体のコミュニティは、恐らく通常のプログラムと同じく権限管理体制が厳格に行われており、曖昧な伝達と曖昧な行動による意図せぬ結果はあったとしても全体的な承認・要求処理は管理されている。

転換期の訪れ

そしてアダムとイヴが目覚めたことにより(推測ではそれより早く)意識が芽生え始めた機械生命体たちは大小なり影響されて自コミュニティ内での解決方法を模索する。
厳密には順序が違う。意識が芽生えたことにより本能的に実現したいことがあるが、タスク実行を優先していてはそれを叶えるための行動が出来なくなるため、解決方法を模索する。
上記を定義する上にあたっての注意点として、意識が芽生える前の機械生命体はタスクを生活の中心としていたが、生活に自身のアイデンティティを見出しているわけではなく、飽くまでも機械的に与えられたタスクを実行していたまでに過ぎず、生活を続ける理由があったわけではなかった。
現にアダムが「憎悪」を模倣すべくヨルハ部隊を含めたアンドロイドの敵役として全面的に自身をアピールしていた。その「憎悪」のアイデンティティの結末が自身のタヒに繋がる可能性があったとしても、最も人間らしさを瞬間的に獲得できたアダムは機械生命体に元々あった秩序からズレた存在だ。
ただ同時にアダムの意識の結果が破滅へと繋がるように、機械生命体たちが見出した希望が誰かの絶望に見えてしまうことが多々ある。

「カミになった」の意味

Nier:Automataのゲーム開始時に「不可解なパズルを渡した神に、いつか私達は弓を引くのだろうか」が記載してある通り「カミ ≠ 神」ではない。なので文学表現的に機械生命体は「カミ」の本質を獲得していないまま連呼していることを強調している。
では何故「カミ」という言葉に固着したか。私は最高権力者のことを示していると思っていて、自身達の創造主のエイリアン以上の存在。もしくは自身の存在意義とタスク実行のサイクルから抜け出してくれる概念を「カミ」と呼んでいる可能性が高い。なので「カミ=タヒんだ」と宗教的に解釈している理由としては全てのタスク実行から解放されたことを示す。
安直に言うと「カミ」は存在や対象ではなく状態に相応しい。「「カミになった」ので平穏が迎えられることも示す」この文が最も正しい。

皮肉の意図

タスク実行から自身を抜け出すことができなかった理由は、工場内のコミュニティは束縛力が強く(恐らく危険性が高いことも起因する)、自身だけでなくコミュニティ全体がタスク実行から解放されなければならない使命感が発生していた可能性が高い。
また機械的な(コンピューター工学的な)話になるが「他者にも同じように共有する」というチェーンメールのような手法を用いることでその重要性を強調できる。より専門用語で言うと親から子への命令だけでなく子が親への要求内容にも含まれるため(場合によっては無限)かなりの回数ループする。なので工場コミュニティでは、誰かがそれに気づいた時点でそうなる可能性が著しく高かった。
ということを同行していたパスカルも気づいていたハズだ。パスカルやこのゲームをプレイしてた人たちもそうであるように、タヒの概念を正しく認識できないまま「カミになる」ことだけを優先し続けてタヒ以降の世界を把握しないまま一直線に向う様、またそれらを「工場内コミュニティの意志・希望の結果」と表現するのは、かなりオブラートに包んで「愚直」だ。またその域に到達できた
ここで日本だけでなく色んな国々が抱えている「宗教」というフィルターをわざと掛けさせるような表現方法を用いたのは演出的な試みなのか、はたまた機械生命体が愚直に進み続けた結果なのか。
パスカルがそう想ったように「なるべくしてなった」と捉えてしまうのが一番楽ではあるが「この不可解なパズル」の一例を見せつけられてしまってはその創造主に疑問を投げ掛けたくなるのは、彼らの帰結はもう少し発展さえすればまったく違う結末に至れたハズだし、こんな「宗教」の悪い所の詰め合わせみたいなのを演出してる感を受け入れられない自分が居るからだ。

最後に

機械生命体が意志を持ったうえで感じ取った絶望とは、観測できなかった絶望から見出した希望が往々にして歪んでいると感じ取らせている点は、登場キャラクターへの共感ではなく直接的にプレイヤーへの精神的攻撃として演出されているからなのか。
また攻撃として認識してしまった場合に、俯瞰的に彼らの事象を観測できなくなってしまう危機感も覚える。ここまでリソースを割く理由が、彼らもとい機械生命体とアンドロイドというサンドボックス的な環境から得るべきものが有るハズ。これは「彼らの苦悩は報われるべき」というプレイヤーもとい神視点だからなのだろうか。
考えに値する、そう思って一筆取った。後は各々で所々嚙み砕いて欲しい。

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