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お袋の臨終

私は心底驚いた。

当時は東京在住。私は27歳から5年間、鍼灸の治療院で働いていた。そこにある日、幼い、たぶん3歳くらいの女の子がお母さんに連れられて患者さんとしてやって来た。話の流れからして、おそらく創価学会員。

私が担当として診療室に入った。そして驚いたのだ。

初めて会う女の子のはずなのに、私はその子を知っていた。正確には、名前も住所も何もかも知らないのだが、私の「命」が「俺、この子知ってる」と叫んでいた。

それは女の子の方も同様であったらしい。何度も私の方を振り向き、とても嬉しそうににこやかな笑顔を見せてくる。

こんなのは初めての経験で(後にも先にもこの時だけ)、驚きはしたが、同時に、なぜか懐かしい気持ちがした。そして、私の心には、自然とある言葉が浮かんでいた。

良かったね。今度は優しそうなお母さんのもとに生まれてこられて。

私も、終始満面の笑みで女の子を見やりながら、施術を続けた。

長年、この出来事が私の中では謎だった。一体、あの子は誰だったんだろうと。

50代に入ったある日、題目を唱えていて、ハッと気づいた。

あの女の子は、私の亡くなったお袋だったのではなかろうかと。そう考えると、あの出会いの時の驚きも感慨も、納得ができる。してみれば、お袋は成仏していたのだ。妙に得心がいった。お袋が死んで30年近くが経っていた。

孤独な死

お袋は、私が25歳の時に死んだ。享年49歳。若すぎる死である。

その死にようは、昼間、親父が仕事で留守にしている間にお風呂に入り、浴槽の中で亡くなった。おそらくは心臓発作かなんかだったのだろう。

その死にようが、その後の展開をややこしくした。亡くなったのは、病院ではなく自宅である。かかりつけ医もいない。そのため「事件性」が問われる案件になってしまい、お袋は遠く離れた県庁所在地まで、検死解剖を行うため運び去られてしまった。

なので、私が東京から家族を連れて車で実家に戻った時には、家にお袋の遺体はなかった。お袋が家に帰ってきたのは、私が着いて二日後のことだったと記憶している。

亡くなったのは10月13日だったのだが、その年の10月は暖かく、戻ってきた遺体からは腐臭が立ち昇っていた。そこに加えてホルマリン臭である。親父と二人、セッセとドライアイスを運んだが、焼け石に水。誰も遺体の側に近寄れなかった。葬儀業者からも、死化粧は諦めてくださいと言われた。ただ、お袋の表情は穏やかだった。

そんな死に様だったので、誰もがお袋の成仏を疑った。私の妹は、いまだに疑っている。

不器用で可愛げのない少女

お袋の父親は、典型的な明治男だった。そして母親は、これまた典型的な大正女だった。

女と言えば、家の中のことはもちろん、畑仕事まで全てそつなくこなす。それが当たり前の家だったようだ。事実、祖母は天才的に家事が上手く、料理から漬け物、着物の仕付け、そして畑仕事まで、何でもできた。また、そうであることが、いずれは嫁として家を出て行く女として当たり前。そんな家だったようだ。

しかしお袋は、天才的に不器用だった。かてて加えて、みめ形が全く女らしくない(私は幼い時、お袋を『牛女』と呼んでいた)。女性としての幸せを享受するには、あまりに欠けているものが多すぎた。そこに、家事が天才的に上手い母親である。お袋は、小さい時から厳しく、徹底的に家事を仕込まれたはずである。

それが証拠に、お袋の私たち子どもに対する家事の躾け方は、とても厳しかった。自分がされた通りに、私たちにもしたのであろう。中でも記憶に鮮明に残っているのは、雑巾の洗い方と絞り方についての躾だ。まだ小学校にも上がってない私と妹に対し、ビンタをしながら教え込んできた。

なので、小学校に上がって掃除の時間、周りの同級生の雑巾の洗い方がなってないことに、こんな簡単なこともできないのかと、とても驚いたのを覚えている。

掃除は才能云々の問題ではないので、まだいい。問題は料理であった。とにかく天才的に下手だった。まず、出汁を取ることをしない。味噌汁は辛いだけだし、野菜の煮物も、醤油の味しかしない。材料の刻み方も雑。弁当を作らせれば、まっ茶色。

その点、祖母の料理はピカイチ。貧乏で家には何もないのに(しかもかまどだ)、なんでこんなに美味しいのかと驚くほど美味かった。たくあんや梅干しも自家製で、それだけで飯が食えた。

破れ鍋に綴じ蓋

これは大学進学時に、自分の戸籍謄本を取ったことから知ったことなのだが、お袋は、私の親父と夫婦になる前に、他家へ嫁いでいた痕跡があった。誰も教えてくれないので、私の勝手な推測なのだが、一旦は嫁いだものの、お袋は嫁ぎ先から追い出されたのではなかろうか。

そんな傷モノになったお袋に、右手がきかぬ、誰からも相手にされない手前勝手な男との縁談が持ち上がった。もちろん、私の親父のことである。両家とも、これ幸いと縁談を進めたのであろう。まさに、破れ鍋に綴じ蓋夫婦の出来上がりである。

この親父が、とんでもない男であったことは、すでに書いた。


この話の中で、親父が家の全財産が入った貯金通帳と印鑑を片手に飛び出していった修羅場も書いたが、この話には続きがある。

ヒステリックに泣き叫んだお袋は、正気に戻ると、私と妹を前に、こう宣言した。

お母ちゃんはお父ちゃんと離婚する。お前たち二人が大人になったら必ず離婚する。

幼かった私は、それでも離婚の危機は回避させなければならないと思ったらしい。家にあった辞書を開き、「離婚」の項目を調べ、紙に書き出してお袋を説得にかかったのを覚えている。

私が25歳の時にお袋は死んだが、その前年には妹が嫁ぎ、その年に第一子を出産予定だった。私は、その年の春に結婚し、その三ヶ月後に娘が産まれた。そろそろ孫の顔を見せに帰らないとなぁと言っていた時にお袋は死んだのだが、よくよく考えてみると、お袋は私たち兄妹が大人になったのを見定めて、旅立ったとも言える。つまりは、結果的に有言実行だったのだ。そのためだろうか、孫が産まれると言うのに、お袋はその事には、全く関心を示さなかった。

どこまでも不器用

私はお袋に可愛がられたという記憶がない。

お袋的には可愛かったのだろうと思うのだが、自分がされた通りにしてしまうのが人間のサガなのかもしれない。自分はされたことのない、ただ抱きしめて、頭を撫でるという簡単なことができない人だった。

何もかも不器用で、もちろん化粧っ気もない人だったが、なぜかどんなに貧乏しても、私には本を買い与えてくれた。それも、聖教新聞社刊行の「きぼうの友えほん」であったりとか、「世界偉人伝」であったりとか。そうした書籍を通して、自然のうちに御書に出てくる数々の説話、例えば「雪山の寒苦鳥」であったりとか「石虎将軍」などや、牧口先生や戸田先生などの生涯を学んでいた。みなもとたろうの筆による「レ・ミゼラブル」や、横山光輝作の「水滸伝」を読んだのも、聖教新聞社発行の漫画雑誌だった。

学研発行の原色大百科事典を買ってくれたのも、私が小学4年生の頃だった。安い買い物ではなかった筈である。私は嬉しくて、夜中まで起きては辞典を開き、授業の予習ノートをつけていた。何度も「早く寝ろ」と叱られた。

勤行も真面目にやらない人だったが(会合には出ていた)、その不器用さを、そうした書籍で補ってくれたのであろうか。

私が未来部の活動に熱心になるのには何も言わなかったが、高校進学でちょっとした行き違いがあった。

お袋は、私を実業高校に行かせ、高卒で地元で働いて欲しいと思っていたようだ。

しかし私は、ハナから大学進学志望で、普通科高校進学を希望していた。お袋の思うままに、高卒で地元就職という手もあったが、そうしたら、今とは全く違う生活が待っていたことだろう。

所願満足

私は、お袋の意に逆らい、創価大学に進学した。そして、これまたお袋の期待を裏切り、二年も留年した。そしてそして、これまた親の思惑など関係なく、在学中に婚約してしまい、半ば無理矢理認めさせた。そしてそしてそして、私は周囲の思惑など無視して、在学中に婚約者を妊娠させてしまい、結果として、大学の卒業式の一週間後に結婚式を挙げることになる。

卒業式出席のために、親父とお袋が二人で上京してきた(結果的に、ここで池田先生に会わせることができた)。そのまま東京に滞在してもらい、一週間後の挙式と披露宴に出席。そして、新婚旅行と言うにはささやかだったが、伊豆半島を車で巡る旅に、親父とお袋も連れて行った。

あれは伊豆の七滝で知られる河津七滝(かわづななだる)を訪れた時だった。

四人で遊歩道を散策していたのだが、そこは水辺。苔が繁茂しているし、飛び石になっている所もある。

これではお袋の足元が危なかろうと思い、私はお袋の手を取った。その瞬間、お袋の顔にはにかんだような不器用な笑みがこぼれた。

その時の私はは全く気づかなかったのだが、お袋の死後、周囲から聞いた限りでは、お袋はこの息子に手を取られたことが痛く嬉しかったそうなのである。嬉しくて、ほうぼうを歩き回って、その感激を話していたらしい。

エ、そんなことで、と思うこと勿れ。よくよく考えれば、お袋が女性らしく扱われたことなど、産まれてこの方、ついぞなかった。そこへ、大切な息子から手を取られたお袋の喜びはいかほどであったか。お袋にとっては、所願満足な一瞬だったのだと、今だからこそ思える。

お袋の半生は、幼い時から苦悩に満ちていた。そのお袋の人生において、唯一の曙光が、子どもの成長、特に私の成長だったのだろう。あの病弱で、内向的で、すぐ泣く息子だった男が、信頼できる伴侶を得、自分の手をとってくれるまでに成長した。本当に嬉しかったのだろう。

それが証拠に、生まれかわってもまた、私の前に姿を見せてくれた。自ら望んで、そこに産まれたのだ。母の慈愛は、三世をも超えた。

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