見出し画像

協調性の欠如に気づかなかった/230506


「協調性?…ねーよ笑」

真剣に問う私にめちゃくちゃ笑いながら恋人が言ったので、本当に当たっているのだろう。
昔から「協調性が無いのかもしれない?」みたいに思うことはあって、だけどそれを人に言うと「普通だよ」と言われ続け、更になぜかそれを信じてきた。

他人を自分より無条件に偉い、と思っていた私のわかりやすいエピソードだ。
真実は私が持っているのに。

協調性が無いことに真剣に悩んで話しても、どうしてか自慢になるらしいとわかって、でも協調性が無いって欠点なのになんでなんだろうかと今も思っている。
こういうエピソードはとても多いので、私から見るとかつての周りはかなりのミステリーだ。

協調性なんてあればあるだけ楽しい気がするのに、みんな無理して合わせているからなのだろうか。
無理しなければよくない?と思って実際に実行する私はやっぱり協調性が無いんだと思う。
だって無理したら楽しくないじゃん。

自分が他人と違う感覚を持っているんだとしたら、諦めた方が良くない?
どこか近似値の感覚を持った人は必ずいるし、そういう人とプライベートでは関わればいいじゃん、と。
無理に合わせたらまじでつまんないし、貴重な自分の時間をそんなことに使いたくない。

仕事だと「お金を貰っているから」という理由があるので合わせることは可能で、感覚的には「協調性を持つことでお金を貰う」みたいなものが強い。

それでも協調性は薄いと思うし、本気で組織に所属することは向いていないとわかっているけれど、今は所属しないと生きていけないのでそうしている。
ありがたい。

高校時代、3年間クラス替えが無く、32人中24人が女子だった。
ただでさえ女子はグループを作る。
それは悪いことではないし、所属する場所があることは安心をとても生むのもよくわかる。
私が会社に所属したいのもそれが強いし。

いくつかグループがあって、なんとなくリーダーと所属が決まっていた。
3年間も子供が一緒に過ごせば、まぁ大変なことになる。
敏感に持て余した自我がもたらすものは稚拙な諍い。
毎日誰かがハブられ、誰かが追い出され、誰かが、誰かが。

食物連鎖、循環

そんなことを思って眺めていた。
そう、私は傍観者を選んだのだ。
傍観者と当事者を行ったり来たりしていた。

3年間、結局どこにも所属しなかった。

その時に自分が一緒にいたい人って変わるし、決められることが我慢ならなかった。
それは中学校の時からそう。

先輩という存在ができて、廊下で会ったら挨拶、敬語を使わせられて、ある意味「尊敬のかつあげ」をされた。
尊敬を強制してそれが返ってきても嬉しいのか、きみたちは、と思い、そして「尊敬するかどうかは私が決めるんだよ」と本気で思っていたのだ。

そういう失敗を重ねて「上下関係の大切さ」を逆に学び、高校に入ってそれを実践した。

登校、下校、移動、お昼休み、全部違う人と過ごし、数少ないプライベートで遊ぶ同級生もみんなグループが違った。
誰かが私にグループの悩みを話し、聴き、相槌を打つ。
「へぇー」と思いながら「くそつまんねーな」とも思ってもいた。

だけど「グループって大切だな」とも思うようになっていて、「上下関係も大切だな」とも思うようになっていた。
それは「絆」が生まれるから。

今でも会う高校の同級生も全く系統が違う。
騒がしい動物園の中で静かに読書をし続けた彼女に、私は惚れたのだ。
「この喧騒、というか叫び声、聴こえてないわけないよね?」という胸の高鳴りを抑えられず「仲間」だと思ったのだ。

この人ぜったい「退屈」なんだわ、と。

仲良くなりたければ自分から話しかけるので、それで仲良くなってもらえた。
人生で数回あった「この人とお話してみたい!」のひとつ。

その同級生と今も話すのは「意外に一番多様性を認めていたのは高校」という話。
みんな頭悪いし素行は悪いし酒は飲むわタバコも吸ったけど、だけど「あなたはあなた、私は私」ができていた。

もしかして他の環境で私のようなやり方をしたら、それこそ全員から無視された可能性もあって、そうなると私も自分を押し殺して同調したのかもしれない。

そうならずに「保留は保留」と思ってくれて、出入りしたりいたりいなかったりしても「まぁそれが保留」と思ってくれていた。

「保留はなんか変わってるけどとにかく映画に詳しいし、リーダーシップもあるし、でも学校に来ないことも多いし、変な体操もするけど、それが保留」

私が私であること、あの子があの子であること、そのままを受容してくれていた環境で、今思い返せばそんなに最高な環境は無かった。

意外に多様性を一番認めていなかったのは美大の方だった、も面白い結論。
よく「美大ってやっぱ変わってる人多いの?」と聞かれて、決まって答える答えがある。
それを言うと「あー笑 なるほど笑 なるほどなるほど、確かにね笑」と言われるのでおそらく当たっている。

一般的に抱く美大の良いイメージ。
絵が上手いとか、感性豊かとか。

悪いイメージ。
めんどくさいとか、自意識過剰とか。

それらのイメージでなんとなくみんなが思っていることを言語化するとそうなる。
だから「あーなるほど笑」という溜飲が下がる感覚を生むのだろう。

ただ、本気で身も蓋もない話なのでさすがに言えない。
何よりも、私もその一人だし。

最近、「協調性が無いかもしれない」と真面目に言うと「え?ないよ?今更?え、なに?」というお便りが沢山来るので正直に生きることの大切さを実感している。

正直に生きれば正直な気持ちが返ってくるという学習だった。

結局、協調性が無い私を支えてくれたのは、協調性の塊の人たちだったという話。
人間は一人では生きていけない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?