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感覚過敏_味覚過敏/230616



好きな食べもの聞かれるのしんどい

発達障害成分を持った人は感覚的に過敏な部分を持ち合わせていることが多く、音だったり、視覚だったり、嗅覚、味覚。


聴覚過敏多数


体感的には聴覚過敏の人が多い。

大きい音とか独特な苦手の音とか、人混みの会話とか、私は無いので思い浮かばないけど、とにかく音に敏感な人はよく見る。

次に視覚。
チカチカしたり強い発色光に弱い人もいる。

だけど圧倒的に聴覚過敏が多い。



苦手成分が増幅される


おそらく発達障害成分多めの人は元々その部分が敏感になっている。
全部0をベースとすると、聴覚過敏の人は音だけ-6とかに設定されていて、それがデフォルト

だからストレスや疲れが溜まるとそれぞれの苦手トリガーに引っかかりやすいんだろうなあと分析している。
元々-6だから全体的に-1になると音だけ-7になるからけっこーしんどい。

視覚だとそれがLD/学習障害の一端も担っているんじゃないかなとか思ったり。

音を気にしている人の言葉で「え?そう?この音がそんなに気になるのかぁ。じゃあこういう系も苦手だろうからこの人と一緒の時は音を気にしないとなぁ」と思う。
思うけど自分が平気だからつい忘れてしまって、その度に「すまん」となる。

実は過去に恋人と喧嘩をしていて、目の前にあった紙をくしゃっと丸めた時に相手が聴覚過敏なのを忘れていて「その音やめて」と言われた瞬間に別れを決意したことがある。
すまん。


珍しい味覚/嗅覚過敏


食べることに興味が無いのはこれ。

味覚/嗅覚がやはり-6に設定されているような。
昔から仲間内で私一人だけ「まずい」と思うことばかりで、だけどそれを言ったら空気を壊すと思って言えなかった。
となると食べれない→少食、となる。

学校の給食なんか地獄だった。

臭くて不味くて食べられない。
みんな舌と鼻どうなってるの?とずっと思っていた。

ひとつ臭い、不味いと思うと食欲が消えてしまう。
だから給食は毎回本気の本気で地獄だった。


実は遺伝


地獄の給食を経て、38歳の頃母親と話していて発覚したこと。

母親も給食食べられなかった。

私より過敏なので「ありえるわ」と思ったけど内情はすごかった。
まぁまぁお金持ちの末っ子のお姫様なので私のように耐えて耐えて耐え忍ぶことなんかしない。

父親(私から見て祖父、顔も名前も知らん)にお弁当を毎日作ってもらって毎日持ってきてもらって毎日保健室で食べてたらしい。

は?とも思うけど私としては

なんでそれ、私にしなかった?

がハテナで包まれた。
たとえ娘であろうとそういう時はナチュラルに他人事の一家なので意地悪でもなんでもなく発想に無いのだ。




大人になってわかった我が家の食


外国産の肉が家で出たことがないと言われると驚かれる

こっちが驚くし、それ。
お金持ちなんだねと言われると、昔はそうだった。
父親はいわゆる一流企業だったし、お金に困ったこともないし、考えたこともなかった。

だけど今は別に裕福じゃない。
なぜなら会社の基金団体の奴が横領したから基金が無くなったからだ。
人に金を任せてはならないという良い教訓。

それはいいとして、生まれた時から今まで家では国産しか食べない。
関西なので肉じゃがなども全て牛だし、まぁ、安くはない、毎日だし。
我が家ではそれが必要経費になっているというだけで、とにかく母親の味覚が過敏すぎるのが原因。

だから母親は外食も嫌い。
臭いから。

そして私もそうだった。

食器の他の食材のにおい、
おそらくネギ系を切ってしっかり洗わないで果物を切ったり、
プラスチックに残っている独特のにおい、

そういうものを余計に感じてしまう。



理解してもらえないからマイノリティ


味覚/嗅覚過敏の人に出会ったことは多分無い。

外食恐怖も無いし、
電車乗れない、も昔はいなかったし、
言ってみればギフテッドも最近まで無かった

一般、マジョリティ/多数派から外れ、サポートにもありつけず、そうなると「自分が悪いんだ」と責めない方法があるだろうか。

「食べられないって、食べ物を無駄にしてるじゃん」

「なんかわかんないけどそんなことできないんだね」

「へぇ…」

みたいな無理解に苦しんで、そしてそれは不特定多数に向けての怒りや恨みとなり、皮肉なことにそれを大きな大きな原動力として私に残した。
本人としては言われなくても申し訳ないしどうにか直したくても直せないのに。

無理解に苦しんで腹を立てて恨んだから、私自身の他人に対する受容が底なしなのだ。
私に理解できるかなんてどうでもいい。
問題は目の前の大切な人が苦しんでいるということだ。

そうか、私はこの姿勢が欲しかったんだな
じゃあ私だけでもやろう

マイノリティにもマイノリティがあって、人間はいつまでもどこまでも区別をしていく。

そうしないと怖いからだ。

比べて自分がまだマシだとか、それを仲間内で共有することが安心を生む。

だけど発達障害ひとつとっても人と同じということは無いから、だから区別は区別として、あなたはあなたでそれが苦しくて、私はそれが苦しいから、大変だよね、となれたらいいなと思う。

感想をつけるよりも、そのまま、それがあなたなんだね、となれないのかと思う。

厳密に言うと私はASDバリバリではないし、それはそれでまた居場所が無い。
たぶん無理だとわかってはいるけど、まぁそんなことを理想として生きている。






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