世界史その22 ハッティ・ヒッタイト・鉄

 ヒッタイトと言えば鉄!色々語るべきことはあれども、まずは鉄!なのだが・・・、一般向けの本で製鉄の起源や、どのような形で製鉄が行われていたのか詳しく記載されているものが見つけられずにいるうちに、ずいぶん時間が経ってしまった。参考資料はまだ十分とは言えないが、取り合えず書けるところまで書いてみることにする。新しい資料があれば、手直しするかもしれない。
 まずは鉄について。古代の人々はまず隕鉄を加工することで、鉄の利用を始めた。隕鉄製の剣は、ギザの大ピラミッドからも発見されている。隕鉄はニッケルを含んだ鉄を主成分とする隕石のことで、当然ながら原料が限られている。隕鉄ではなく鉄鉱石から鉄を取り出す方法は、銅または鉛を精製する際に鉄鉱石を利用したことで副産物として生まれたらしい。鉄鉱石から鉄を精製する方法を確立したのは、ヒッタイト人が現れる前にアナトリアに居住していたハッティ人だった。

 ここで自分はちょっとした混乱に陥ってしまった。ハッティってヒッタイトの別名ではないのか、と。高校時代に使っていた歴史の資料集にもヒッタイト(ハッティ)と書いてあったし、里中満智子の漫画「アトンの娘」でもハッティ(ヒッタイト)となっていたではないか!
 ちゃんとした書籍でこの事情について詳しく書いてある本がまだ見つけられていないのだが、Wikipediaの「ハッティ人」「ヒッタイト」「ヒッタイトの歴史」の項目を見ると、「ハッティ」は民族名・国名というよりも地名としての性格が強く、後にこの地にやって来たヒッタイト人も「ハッティ」「ハットゥシャ」という地名を受け入れたということのようだ。

 なぜ後からやって来てハッティ人と交代したヒッタイト人が先住民の地名を受け入れたのか。ヒッタイト人がアナトリアに移住し、ハッティ人にとって代わるプロセスが、暴力的なものではなく移住者を受け入れる形で緩やかに進行したのかもしれない。あるいは中国で征服王朝・浸透王朝が中国の文化・風習なにより天子概念を、統治の方便として、あるいは本心から先進文化を摂取するつもりで受け入れたように、最初は暴力的に征服しても後に先住民と同化する過程で地名を受け入れたのかもしれない。また北海道のアイヌ語に由来する地名や、アメリカのネイティブアメリカンの言葉に由来する地名のように全く同化する気もない征服者でも、地名だけは取り入れたということも歴史には例がある。
 ヒッタイト人が先住民から自分たちの地名・国名を引き継いだことは、直接的に民族交代の事情を知る手掛かりにはならないようである。

 系統不明のハッティ人に対し、ヒッタイト人はインド・ヨーロッパ語族に属する民族で、紀元前1900年頃までにはアナトリアに移住していたと考えられる。ハットゥシャで発見された文書によれば、クッシャラという地に最初のヒッタイト王朝が成立し、アッシリアの植民地だったカニシュを征服してここを本拠地とした。その後の征服活動の中でプルシュハトゥムという地を征服した際に鉄の王座と鉄の尺を献上されたとされている。

 長くヒッタイトは製鉄技術を独占し、「海の民」によってヒッタイトが滅亡したことによって製鉄技術がオリエントに広がったと考えられていた。ただしこの定説の根拠となる証拠は少なく、代わって鉄器は青銅器の代用品として普及したという説が注目されているようだ。
 この説によるとヒッタイトは鉄の生産に熱心だったが、オリエント全域で見ると従来の青銅器を鉄器に置き換える動機は薄かった。「海の民」の活動により錫の供給が途絶えたため、青銅器の代替として鉄器が生産されるようになったということである。

 いずれにしろ製鉄はヒッタイト以前にアナトリアにいたハッティ人がはじめ、ヒッタイト人がそれを引き継ぎ、おそらくは大きく発展させた。そしてヒッタイト滅亡と同時期に鉄器はオリエントに広がり、更にユーラシアの全域に広がってゆく。
 産業革命後には「鉄は国家なり」の言葉が示すように、製鉄は国力に直結するようになるのである。

 今回の文章をまとめるにあたり、色々検索した中で抜群に面白かった記事がこちら。内容が丸被りにならないよう、構成を考えないといけなくなったけど。

 こちらで紹介されていた日本西アジア考古学会のサイトから見られる記事(pdfです)は大いに参考にさせていただきました。

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