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七つのロータス 第39章 パーラIII

 第1章から

 スカイアの元を辞去して、神殿の奥まった本殿から人々の賑わう参道へと歩を進める。三日続けての訪問も一段落したと思えば、自然と足取りも軽くなる。
  ティビュブロスは事態が密やかに、しかし確実に進行してゆくのを、おそらくは首謀者である息子以上に熱い眼差しをもって見ていた。かつて皇帝の助言者にして皇族の教師を務めた男は、息子の把握していない神官長の動向までも視野に収めている。ラジそしてスカイアの企てを止める事は、ティビュブロスの手に余る。だがこれらの危なっかしい企てを、成功に導いてやることはできるかもしれない。事実、ティビュブロスの頭の中には、二人の計画をひとつにまとめるかたちで、全てがうまく収まる道筋が浮かび上がっていた。まるで新しい用水路に水が導かれるように、全ての事態が都合の良いところに綺麗に収まる。ティビュブロスにはそのような目算がついている。その落ちつく先は自身の性格からして、けして愉快なものではない。それでも一度は引退した身でありながら、帝国の危機に際して大きな役割を果たせることには満足を感じてはいた。

 スカイアは巡礼者の服装に身を隠したティビュブロスを見送りながら、静かな笑みを浮かべていた。機は熟しつつあった。皇家の血を流したジャイヌを排除する。全てはあと十日のうちに決する筈だった。

 オランエは苛立っていた。自分の周囲で大きな流れが渦巻いている。そのことは本能的に察せられるのに、何が起きているのかは一向にわからないまま日が過ぎて行く。
 無為徒食を貪るのに飽き飽きして、ラジとティビュブロスを直接問いただす決心がついたのは、いつものように三人での食事の途中だった。
 オランエの思い詰めた表情に気づいたのか、口を開くなりティビュブロスがそれを制す。
「今は何も言うな。後で全て説明する」
苛立ちは更に増し、オランエはただ黙って食事を口に運んだ。不意に瞑想修行者の理想像である鏡のように滑らかな心から今の自分がいかにかけ離れているかという思いがこみ上げてきて、手にした食物を床に叩き付けたいような思いにかられた。

 食後、ティビュブロスはオランエを自室に招いた。ラジも含めて三人が入ると、息苦しいような小部屋である。
「どこから話したものかな…」
二人を立たせたまま、ティビュブロスは寝台に腰掛けた。
「オランエも察しているとおり、今この帝都では様々なことが起こっている。その中の一部は、ジャイヌ打倒のために我々が起しているのだ」
「我々ってのは、いったい誰と誰なんです?」
オランエの口調には、苛立ちがそのまま表れていた。
「私とラジ、スカイア様。そして元将軍のサイス殿と、近衛軍の千人隊長ゴウイイの二人に協力を打診している。それにオランエ。君も妹の生殺与奪をジャイヌに委ねておく気はないのだろう。パーラはナープラを手にかけた男の側で怯えているのだろうから」
オランエの顔に拗ねたような表情が浮かぶ。ティビュブロスの脳裏に、まだ幼い頃のオランエの姿が一瞬、甦ってきた。
「目的はジャイヌを摂政の座から追い、正しい裁きを受けさせることだ」
「無理ですよ」
オランエが皮肉な口調で言葉を返す。
「まともに考えればな。だがジャイヌを捕らえることを皇帝自らが命じたら、どうだ?」
「どこの皇帝ですか?パーラはジャイヌの手の中にいるも同然ですよ。そんなことができるわけがないでしょう」
「まあ聞け。手はある」
ティビュブロスはゆっくりと話を始めた。

 オランエが部屋を出て行くと、ラジが囁いた。
「なんで、あんな細かいところで嘘をつく?」
「オランエの手を汚させたくはないのでな」
ラジはかすかな笑い声をたてた。
「師弟愛か?」
「まあ、そんなところだ」
我が子ながら察しが悪い奴だ。そういった思いはおくびにも出さずに応える。陰謀を巡らし他者を手玉に取ることの愉しさを、かつて清廉な廷臣だった男は初めて味わっていた。

 金銀の糸を織り込んだ煌びやかな布で囲われた輿が、ゆっくりと皇宮から街路へと姿を現す。人々の歓声が大路を満たす。輿に近づこうとする群衆 を、近衛兵たちが押し止める。その内側では楽人や踊り子の先導で、御輿がゆっくりゆっくり、定められた道を辿ってゆく。更にその後には騎馬の近衛兵が付き従う。楽人たちの賑やかな調べにあわせて、女たちは踊る、踊る。華やかな行列は人々の晴れがましい顔に囲まれて、最初の目的地に向かっている。新たに皇帝に即位する者は、まず皇宮の中で神君ジョグジャンタに捧げられた神殿に参詣する。そして丸一日をかけて、大地母神、河神、太陽神の神殿を巡るのであ る。
 厚い布に視界を遮られた、薄暗い輿の上では、パーラが静かにうつむいて座っていた。布の向こう側から激しい歓声が聞こえるたびに、パーラは怯えて身を固くしてしまう。外が見えないのが恐ろしくて、折り重なった布の間をそっと押し広げて覗いてみる。沿道を隙間なく埋め尽くすような顔、顔、顔。 それぞれが何やら叫び声をあげている、数え切れない顔。パーラはますます恐ろしくなって布から顔を話すと、輿の中央でただただ身を縮めた。
「兄さま……」
思わずか細い声が洩れた。その声が再び心に反響して、パーラの目からは涙が静かに流れ落ちた。
 外から聞こえる愉しげな楽の音も、むしろパーラの苦しみを高めるばかりだった。

 行列が最後の目的地である太陽神の神殿に辿り着いた頃には、夕陽も遠い地平線に近づいていた。パーラは神域の入口で輿を降りた。人々は神殿の遥 かに外側で押し留められているので、周囲は気味が悪いほど人気が無い。群衆の声が遠く、風のうなりのように聞こえる。七人の女官に囲まれ、重い衣装を引き摺るようにして、切石の参道を歩く。大理石造りの神殿の内陣へは、ただ一人で進まねばならない。女官たちを待たせ、スカイアの待つ内陣へと歩を進める。階段を登り、列柱回廊を横切り、建物の中へ。そのまま建物を通り抜けると、太陽神の祭壇が高く高くそびえている。
 祭壇の下、供物台の前にスカイアがいるのが見えた。重い足取りで、一歩一歩供物台へと近づく。やがて薄暗い中でも相手の表情がわかるようになった。思いがけずスカイアが満面の笑顔を浮かべていたので、パーラは足を止めた。
「お疲れ様、大変だったでしょう」
パーラは一日中、厳粛な空気の中にいて疲れ切っていた。ここでも身じろぎひとつ許されぬような儀式が執り行われるのだと思っていた。スカイアは戸惑い呆気に取られているパーラを祭壇の前に招き寄せ、銀の杯に満たした水を差し出した。
「儀式があるんじゃないんですか?」
パーラが飲み物を受け取りながら尋ねる。
「うん、まだ少し残ってる。でもその前に一息つけたっていいじゃない?」
スカイアは心から楽しげな笑顔。
「ほら、新しい皇帝陛下に乾杯」
スカイアがパーラの杯に、自分の杯を打ちつけて唇に運ぶ。パーラもつられて、飲み物に口をつけた。僅かに果実酒を混ぜた水は、爽やかな香りを忍ばせている。
 清澄な水を少しずつ口に運ぶと、体の中で滞っていた物が再び動き出す感覚に続いて、激しい疲労感が襲ってきた。
「疲れました。本当に…」
スカイアに導かれて、祭壇脇の敷物の上に腰を降ろす。肩や頭が鉛の塊でもあるかのように感じられる。
 スカイアは数多く捧げられた供物の中から、小さな檸檬を取って、パーラに差し出した。黄色い果実を受け取ると、厚い皮に前歯を立て剥ぐ。微かな苦みを口の先に感じた。残りの皮を手でむいて、果肉を口に運ぶ。酸味が鋭く舌を刺す。
「これで少し休めば、多少は元気になるわ」
スカイアは笑顔のままパーラの前に膝をつくと、右手を伸ばして姪の頬を撫でた。
「もうこれからは、人前でそんな悲しそうな顔を見せてはだめよ。あなたはもう皇帝なのだから、いつももっと堂々としていないと」
パーラはゆっくりとスカイアの顔を見上げる。
「叔母様、どうしてもわたしが皇帝でなくてはならないのですか。他の誰かではいけないのですか」
スカイアは相手の頬に置いていた右手を、パーラの頭の後ろに移すと、そのまま力いっぱい引き寄せた。神官長の胸に掻き抱かれた皇帝は、優しく髪をなでる手を感じた。
「大丈夫、大丈夫。何も怖いことはないわ」
優しく優しく子どもをあやすような声。
「なんで!なんで…、そんなこと言えるんですか。ナープラは殺されたんですよ」
スカイアは更に抱きしめる力を強める。
「そうね。そう…。逆臣をいつまでも野放しにしておくつもりはないわ。絶対に。それにあなたは私が守るから。そうですとも、これ以上皇家の血を流させてなるものですか!」
スカイアは抱きしめる力をまた少し緩めて、ゆっくりと長い髪を撫で続けた。
「それにね…、あなたを守るのは、私だけじゃないのよ」
神官長の腕の中で、パーラが弾かれたように顔を上げた。
「察しの良い子ね」
スカイアの言葉に、パーラは確信した。
「兄さま!」
スカイアは無言で頷き、手布でパーラの涙を拭った。
 視界の端、薄闇の中で何かが揺らめいた。そう思った時には、その揺らめきは既に人の姿をとっていた。
「兄さま!」
パー ラはもう一度叫んで、立ち上がった。神官の装束に身を包んだオランエは、大股でゆっくりと近づいてくる。パーラもオランエに向かって小走りに駆け、二人は手を触れ合わすことができるほどの距離で向かい合った。真っ直ぐにオランエを見上げる視線を、兄はかすかに逸らした。
「あまり遅くなると、怪しまれるかもしれない。早く用事を済まそう」
目を合わせようともしてくれない兄の声が、パーラに冷たく届いた。
「もう少し愛想良くしてあげたって…」
スカイアの言葉にも、オランエは態度を変えなかった。
「その首飾りを」
「え、でも…、これは…」
パーラはためらった。首飾り中央に留められた円筒形の玉。これに彫られた印章にどれだけの意味があるのか、パーラにもぼんやりとはわかっている。ずっとその助力を待ち望んでいた兄といえども、玉璽を手渡してしまうことは躊躇われた。
「すぐに返すよ。さあ」
スカイアを盗み見る。相手はひとつ頷く。パーラは恐る恐る首飾りを外すと、オランエの手の中に落とした。
 オランエは円筒形の玉璽を受け取ると、パーラに背を向け、供物台へ歩み寄った。思わずその背を追って、二三歩近づく。供物台の上に白い布を広げ、瑠璃色の染料にひたした玉璽をその上に転がすところが、背中越しに見えた。
 オランエは玉璽を手布で拭いながら振り返った。
「これでお前を害そうという者はいなくなる。僕も森へ帰れる」
そう言いながら玉璽に目を遣る。パーラの目には兄がずいぶんと不機嫌に見えた。
「帰ってしまうの…」
思わず呟いた言葉は、兄には届いてはいないようだった。オランエはスカイアに一礼すると、パーラには目もくれずに立ち去った。

 再びこみ上げてきた涙がおさまるのを待って、残りの儀式が執り行われた。空には僅かな残光が残るだけになり、帰りには参道の両脇で神官たちが、松明を捧げ持って照らしてくれていた。

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