世界史 その8 シュメール文明を滅ぼし、あるいは継承した人々

 ウル第3王朝の滅亡により、シュメール人とアッカド人がメソポタミアの主役だった時代は終わった。ではその次の時代にメソポタミアの主役となったのはどんな人々だったのだろう。

 時計の針を少し戻してウル第3王朝の後期の状況を、新たに歴史の舞台に現れてきた民族の活動を主軸として見ていくことにする。
 ウル第3王朝の創始者ウル・ナンムの後を継いだ2代目の王シュルギは48年に渡って統治した。官僚制と常備軍を整備し、メソポタミア全域を中核としてレヴァントからイランに及ぶ地域に覇権を確立した。しかしその治世が終わると、王となったアマル・スエンと兄弟のシェ・シンの争いが起こる。アマル・スエンの9年の治世の後、シュ・シンが王位についた。この頃から異民族の活動が活発になってくる。それはフリ人、アムル人、エラム人といった民族だ。

 フリ(フルリ)人はアッカド帝国が衰えた時代に空白となった土地に王国を建てた。ウル第3王朝時代には現代のトルコ南東部・イラク北部・イラン北西部でいくつかの都市がフリ語の名前を持つ王によって治められていた。ウル第3王朝の覇権の元にあった都市もあり、シュ・シン王が反乱を起こしたフリ人の国であるシマヌムを討伐した記録がある。

 メソポタミアを東側から脅かしたエラム人は、紀元前2700年頃のシュメールの記録に現れ、キシュ第1王朝、ウルクのギルガメシュ、サルゴン1世などがエラムを討伐した記録がある。逆にエラム人もしばしばメソポタミアに侵入した。
 紀元前2000年紀には楔型文字を導入しイランに都市国家を建設。ウル第3王朝成立とほぼ同時期、紀元前22世紀には都市国家を統合した王朝が成立し、ウル第3王朝と激しく争った。

 アムル(アモリ)人はアッカド人と同じセム系の民族で、都市での生活を選んだアッカド人と違い、部族社会に基づく遊牧生活を送る人々が多かった。彼らはウル第3王朝の時代に次第にシュメール・アッカド地域に遊牧民として、あるいは傭兵や労働者として入りこんできていた。ウル第3王朝は全盛期であるシュルギ王の時代に、既にアムル人対策として防壁を建造している。このシュメール版の長城はシュ・シン王の時代に更に拡張される。

 シュ・シン王の息子イビ・シン王の時代にウル第3王朝は東にエラム人、西にアムル人の脅威を抱えていた。そこに更に大飢饉が発生する。王はイシュビ・エラという人物をシュメール北部の都市・イシンに派遣して穀物を確保させた。イシュビ・エラが買い付けた大麦について王に報告すると、王は報告した値段の半値で買い付けることができた筈だと叱責する書簡を返した。この書簡のやり取りがあった年が諸説あるので因果関係はわからないが、ひょっとしたらこの叱責が直接の引き金になったかもしれない。イシュビ・エラはイシンで独自の王国を建国した。もし叱責されたことで身の危険を感じて離反したのなら、三国志のエピソードにでもありそうな話だ。
 内憂外患を絵に描いたような状況の中で、遂にエラム人がウルを攻略し王を連れ去ってしまった。ここにシュメール人が王を勤めた最後の国家が滅亡した。

 イシュビ・エラがアムル人だったかは、参考にしている本でも意見が別れている。中央公論新社「世界の歴史1人類の起源と古代オリエント」ではマリ出身のアムル人としており、山川出版社の「ハンムラビ王法典の制定者」ではハンムラビの時代のマリ王国がアムル人の国であったため、イシュビ・エラもアムル人だったと考える研究者もいるが疑わしいとしている。
 とにかくイシュビ・エラが建てたイシン王国は周囲のアムル人たちと友好関係を深め、10年かかってエラム人をメソポタミアから追い払った。
 イシン王国はシュメール文明の継承者であることを強く意識し、シュメールの神々を祀り、シュメールの儀式を執り行った。多くのシュメール語の文書が積極的に複製される一方で、口語としてはシュメール語が使われることはなくなっていった。

 イシン王国はメソポタミア全土を統一することはできず、多くの国家が分立することとなった。その多くはアムル人の国家だった。イシン王国以外で有力なのはラルサ王国で、両国で南部メソポタミアの覇権を争うこととなる。そのためこの時期をイシン・ラルサ時代と呼ぶ。最終的にはラルサがイシンを滅ぼして統合する。
 メソポタミアから少し東に外れた地域にはイシン王国の支援で成立したエシュヌンナ王国があり、北部メソポタミアに勢力を伸ばした。次いで北部メソポタミアではアムル系の小国の王であったシャムシ・アダド1世が、古アッシリアを征服しそのままアッシリア王となる。シャムシ・アダド1世は、更に北メソポタミアで有力なアムル人国家だったマリ王国も征服して、北部メソポタミアを統一した。
 このようにウル第3王朝崩壊後のメソポタミアは、アムル人を王とし、あるいはアムル人の有力者が支える国々によって統治された。アムル人の時代と呼ぶことができる。そして南部メソポタミアの一角で、小国とは言えないが目立つ存在でもない、もう1つの国が躍進の時を待っていたのである。

 最後はちょっと演出過剰にしてしまったかな?次回はそのもう1つの国であるバビロン第1王朝を取り上げる。今回はイシン・ラルサ時代をちょっと取り上げて、バビロン第1王朝をメインにするつもりだったのに、筆が走りすぎたようです。

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