七つのロータス 第35章 サイスVI

 穀物庫の中で息を殺して待つ。籾殻の匂いと兵士たちの汗の匂いが、穀物庫の空気に満ちている。オランエはそっと短槍を身に引き寄せた。皇子が自ら指揮をとるにはずいぶんと地味な仕事だが、オランエは皇帝の命令を甘んじて受けた。今までは皇帝の傍らにあっ て、いつも後方から戦いを見ていたが、今日は自ら敵と切り結ぶ事になるだろう。うまくいかない、などという事は考えてもいなかったが、だからと言って全く 緊張せずにいられるというものでもない。
 オランエは尻を浮かし、槍を握りなおした。穀物庫の壁を通して、遠くからわめき声が聞こえた気がしたのだ。
「皇子さん、そんな娘っ子みたいにそわそわするもんじゃねぇですぜ」
この小部隊の実質的な指揮官である隊長が言うと、兵士たちは忍び笑いを洩らした。声をひそめたのは、敵が迫っているからであって、オランエを畏れてのことではない。もしも戦場でなければ、皇子であろうと哄笑にさらされていただろう。オランエは親指の爪を槍の柄に食い込ませ、また床に腰を下ろした。
 門を開け放っておいたのは、正しかっただろうか。もし門を閉ざしておいて村が無人であれば、罠だとさとられるだろうと思い、あえて開け放っておいたのだが、食糧を奪おうという敵は村人が逃げ出したあとだと知って、どのみち立ち去ってしまうかもしれない。そうすればオランエたちの待ち伏せは空振りだ。オランエは全身を耳にして、建物の外から聞こえる物音に集中した。敵は村の中に入ってきたようだ。
「敵は五十人足らず。不意打ちなら充分やれますぜ」
「思ったより多いな」
隊長は声だけから敵の数を推測した。オランエは自分もわかっていたというふりをすることすら思いつきもしなかった。
「大丈夫。夕飯は本隊と一緒に食えますよ」
若い兵士までが隊長の真似をして、皇子に気楽な口をたたく。敵が自分たちの倍以上いることなど、まるで気にしている様子がない。
 隊長が手で兵士たちを制すと、全ての声が止んだ。敵の気配が近づいてくる。ひとつひとつの家をあらためながら、この穀物庫をめざしている。
 敵の声はもう扉の外側に迫っている。息を殺す兵士たちは、そのすぐ内側ですでに武器を構えている。いよいよだ。そう思うと今まで必死で押し殺していた感情が、押さえきれなくなる。槍の柄を強く握り締めると、この落ちつかなさは恐怖ではなく、とてつもない高揚感だということに突然気づいた。
 扉が開き、暗い倉庫の中に陽が差しこんできた。

 目の中に差しこんできた光が、オランエの感覚を狂わせていた。天井の木目、庭からの光、鳥のさえずり。ああ、夢を見ていたのか。そう思って大きく息を吐き出す。長い間、思い出さずにすんでいた罪。イヤ、ツミデハナイ。オランエは寝床の上で上体を起こした。既に日は高く、庭の緑が刺すほどに輝いている。なんでこんなに眠ってしまったのだろう。
 いつの間にか右手を意識していた。そこには遠い昔の感覚の名残が残っている。槍で敵の体を貫いた感覚。オランエは今、自分でも驚くほど冷静にその過去の罪―ツミデハナイ―を受けとめていた。いや、そのとおりだ。罪ではない。修行者の理屈で言えば、全ての生ける者、これを殺すことは罪である。だがあの時の自分は、修行者ではなかった。皇族の一員であった。平時にあっては国を整え、戦時にあっては敵を倒すことが役割だった。自らの役割に従う事は罪ではない。
 修行者になって以来、幾度も幾度も反復してきた思考は、かつての悩みをすっかりオランエから拭い去ってくれた。そして時折、今朝のように忘れていた思いが顔を出すことがあっても、この思考をなぞりさえすれば罪悪感は消えてなくなる。すべてはもうすっかり過去のことなのだ。ナラバナゼ、ユメヲミル?
「知るものか」
オランエは声に出して言うと、庭に面した部屋の中央で、静かな瞑想に入った。瞑想に理想的な環境でないのは昨日と同じだが、少なくとも過去の罪悪感に苦しめられることはなかった。

 ラジは今日も目立たぬよう、早すぎることも遅すぎることもない頃に、議場に姿を見せた。気の早い者は既に敷物の上に座を占めてはいるが、中にはまだ皇宮にも到着していない者もいる時刻。議場に入る時間だけではなく、座る位置にも気をつける。父親の地位を引き継いで参議になった、ただのぼんくら。参議に なってからもその前も、目立った仕事をしていないラジを、多くの者はそう見ていた。
 ラジ自身は兵士としても文官としても、自分の力量を見せつける仕事に恵まれなかっただけだと思っている。今までは早く目覚しい働きを見せて、自分の力を知らしめたいと願っていたが、これからはむしろ目立たず、誰からも忘れ去られた存在でいた方が仕事を進めやすそうだった。
 議場に集まった人々は、会議が始まるまでの時間を、ある者は密やかな、ある者は声高な会話に費やしている。高官たちの情報交換は、触角を突き合わせる蟻を思わせた。漏れ聞こえてくる会話の端々に、苛立ちのこもった声が混ざっている。プハラの占領が続き、編成するだけでだけで帝国が傾きかねないほどの大軍勢を差し向けながら、はかばかしい報せが一向にないことが、そろそろこの人々にも暗い重石となってきていた。この空気に含まれた棘のような苛立ちは、なにか餌食を見つければただちに刃に姿を変えるだろう。今日その刃は、昨日帝都に帰りついたばかりのサイスに向けられる筈だ。刃をかわすことではなく利用することを考えているラジは、今日行われることを人々の身振りひとつまで何一つ見逃すまいと決意していた。

 最後にジャイヌが入場すると、話し声は止み、人々は各々座る場所を見つける。先帝の摂政で、今日の会議で新たな皇帝の摂政になる男が会議の開始を宣言した。

 サイスは呼び出されるまで長い間別室で待たされたあげく、重臣や高官たちの視線が注がれるのにじっと耐えねばならなかった。大法官ウルウが、若き元将軍の「罪状」を読み上げている。
 曰く元将軍サイスは、指揮官であるマライの戦死をただちに報告する事を怠った。自らが指揮杖を揮い、皇軍の兵を自由に動かさんとする野心の故である。
 曰く元将軍サイスは、帝都よりの指示を仰ぐことなく敵と切り結び、皇軍に大きな損害を与えた。皇軍の兵士らは、元将軍の野心の犠牲となったのである。
 曰く元将軍サイスは、敵を攻撃するにあたって、サッラからの提案を無批判に受け入れた。このため帝国とサッラの主従関係は逆転し、草原における帝国の威厳は著しく傷つけられた。
 必死でサッラを守ったつもりのサイスにしてみれば、これらは言いがかりとしか思えない。それでも発言が許されるまで、耐えつづけるしかなかった。
 大法官の断罪はなおも続く。
「元将軍の勝手な行いが招いた結果は重大である。すなわち帝国の七都市のひとつ、プハラの陥落である」
議場全体にざわめきがおこった。
 大法官は議場が静まるまで言葉を続けないつもりだったが、ざわめきはいつまでも終わらず、要人たちが囁き交わす言葉は、しだいに遠慮をなくして大きくなっていった。大法官は一瞬、摂政に視線を向けた。摂政はひとつ頷く。
「諸君、静粛に願う。まだ大法官の話は終わっていない」
摂政は声を荒げたわけではなかったが、場は一転して耳が痛いほどの静寂に包まれた。大法官が全体を見まわして、先を続ける。
「前後の繋がりもわかっておらぬ者も多くいようが、プハラの失陥が元将軍の軽挙によって引き起こされたのは、間違いのないところである。すなわちプハラを襲った敵が、草原の民だと思われること。タラスを奪った時と同じ策略を弄していること。そしてその時期が符合すること。これらは全て、元将軍がサッラで撃ち洩らした敵が、帝国の本土に押し寄せたことを示している」
 嘘だ!サイスはあやうく全ての儀礼を無視して、叫び出すところだった。ハラートが十もの支族を持つ大勢力で、それぞれ別々に行動していることはちゃんと報告した。プハラを落した敵がサッラを襲った敵と同じではないという証拠はないが、別の一派だという方がよほど有り得る筈だ。
「以上で元将軍、サイスに対する弾劾を終える」
大法官が言い終えて敷物の上に坐りなおすと、ジャイヌが立ちあがった。
「本日は他にも議題がある故、告発に対する元将軍の申し開きは後日とする。元将軍は拘束されることはないが、常に所在を明らかにしないくてはならない。またグプタより外に出ることは禁ずる。以上」
サイスはもはや抗議する力もなかった。自分に対し、何らかの悪意が働いているのは明らかだ。だが何故?
「元将軍は退室するように」
ジャイヌの声が耳に届いても、サイスは指一本動かすこともできずに、視線を虚空にさまよわせていた。

 元将軍が近衛兵に両脇を捕らえられ、文字通り引き摺られてゆくと、再び議場はざわめきが支配した。ラジは今日も議場に座を占める人々の言動のひとつひとつを、黙って観察し続けていた。
 ジャイヌは慌てず、場が収まるのを無言で待った。

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