胡蝶之夢(仮)

【0日目】
 ハルさんが事故に遭ったらしい。風の便りで知った。ハルさんとは10年近く連絡をとっていないからか、いまいち実感が湧かない。
 明日からお盆で、夏休みだし。

「うわ、今日、かわいい子がいる。ラッキーだな。誰の知り合いなの?」
 友人が所属してるバンドサークルの飲み会で、隣の席の知らない人に話しかけられた。小柄なのに少し筋肉質。ふんわりパーマの、少年みたいな男の人。それがハルさんだった。
 わたしの中の『ダメ男センサー』が少し反応した。でもそれは無視した。
「田中くんが呼んでくれたんです。音楽好きなら趣味が合う人がいるかもって」
「田中くん?誰だっけ?ごめん、うそだよ。ね、名前、教えてよ」
 ハルさんは誰に対しても明るくて、ひょうきん者って感じだった。
「それで、何が好きなの?」
「ムームとかシガー・ロスが好きです。あんまり知らないですよね……」
「知ってるよ!僕もムーム好きだよ」
 予想外に話が盛り上がった。ハルさんは留年を繰り返しているらしく、歳はよく分からなかった。そのせいか、どこか浮き世離れしていた。
「普段ここの飲み会はあんまり来ないんだ。でも今日は来て良かったよ。君も良かったでしょ?今度みんなでライブするから、おいでよ」
 なんてキザなことを言ってきたくせに、ハルさんは連絡先を教えてくれなかった。だからわたしが自分から聞いた。普段は男の人に連絡先を聞くことなんてほとんど無いけれど、彼にはもう一度会いたいと思った。

【1日目】
 もう朝か。いや、昼過ぎかも。昨日は悪い知らせのせいでよく眠れなかったから。でも今日は貴重な社会人の夏休みの一日目だから、もう少し夢の世界にいさせてほしい。
 寝返りを打つと、手が柔らかい髪に触れた。知らない間に、恋人が家に来ていたのだろうか。……あれ、彼とは、少し前に別れたんじゃなかったっけ。
 頭の中で、何かが弾け飛んだように飛び起きた。
 彼、じゃない。小柄なのに少し筋肉質、ふんわりパーマの、少年みたいな。
「ハルさん?」
 それ以外の言葉が出てこなかった。心臓が飛び出しそうなくらい脈打っている。隣で寝ている見覚えのある人が目を覚ます。
「あ、おはよう。君さ、ほんと起きるの遅いんだね。僕も二度寝しちゃったよ」
 やっぱりハルさんだ。でもハルさんは、大きな事故で入院中じゃなかったっけ。なにより、このマンションはオートロックだから部屋には勝手に入ってこれない。というか、なんでうちの住所を知ってるんだ。
 回らない頭でグルグル考えてると、ハルさんらしき人が申し訳無さそうに言ってきた。
「ごめん、びっくりするのも仕方ないよ。僕もよく分からないんだけど、気付いたらここにいたんだ。でも、君みたいなかわいい子の家でラッキーだな。久しぶりだね」
「お久しぶり、です?」
 何がなんだかわけが分からない。
「言葉で説明しても意味無いか。とりあえずこっち来てよ」わたしは手を引かれ、部屋のドアの前に立つ。
「僕、昨日、事故に遭ったんだ。それで、幽霊になっちゃったみたい。その証拠に、ほら、ドアをすり抜けちゃう。外に出て確かめたけど、誰も僕に気付かない。君と、君の部屋のものにしか触れないんだよ」
 手品みたいにドアを何度も出たり入ったりしながら説明された。
 わたしは自分の頭がおかしくなったのかもしれないという考えを捨てきれず、変に冷静になる。
「要するに、成仏できるまでうちにいるしかないってことですか?まあハルさんが平気なら、別にいいですけど……」
 ハルさんの表情がパッと明るくなった。
「ありがとう。君は昔から話が早いね。ところでこのマンション、結構高級そうだね。仕事とか、何してるの?」
 安心したのか、一変してどうでもいいことを尋ねてくるハルさん。
「はあ、外資系コンサルってやつです」わたしは変わり身の早さに呆れながら、淡々と答える。
「おー、すごいね?」
 絶対に何も分かっていないハルさん。
「ハルさんって大学卒業できたんですか?」
 わざと嫌味っぽく言ってみる。
「多分……そういえば、なんで僕、大学のときの姿に戻ってるんだろ」
「幽霊だからじゃないですか」
「昔の僕ってこんなにかわいかったんだ」
「それ自分で言います?」
 理解不能な状況だ。なのに会話は弾む。ハルさんに対する呆れの中に、憧れと愛おしさと、少しの劣情が混ざり合う。
 この感情には、心当たりがある。

 ハルさんと初めて話した数週間後。誘われたライブを見に行った。知ってる子がたくさん出てた。でもわたしはかなり退屈していて、なんでこんな場所にいるんだろうって思ってた。
 そのとき、ハルさんが出てきた。何の曲だったかは、思い出せない。
 ハルさんが、歌いながらギターを弾いている。何小節か弾いて満足したのか飽きたのか、ギターをベースに持ち替え、楽しそうに身体を揺らす。最後にベースを置き、意気揚々とドラムスティックを構え、踊るようにドラムを叩いた。
 目まぐるしくて目茶苦茶だった。でもなぜか目が離せなかった。せっかちに羽をバタつかせて舞う、どこか毒々しい、小さな蝶みたいだった。

 ハルさんとは本当に色んな話をした。大学の裏の木陰にあるベンチは長らく二人の指定席だった。
 これはハルさんが作った曲を初めて聴いた日のこと。
「ハルさんのこと考えると、笑けてきます」
 照れながらわたしが言った。
「『笑ける』って、どういう意味?」とハルさんが尋ねる。
「関西弁では、『笑える』を『笑ける』って言うんです」
「『笑ける』か、それすごく良いね」
 そんな他愛も無い会話をしてたら、「そういえばこないだ、新しい曲を作ったんだ」とハルさんが言ってきた。わたしは音楽には結構うるさいタイプなので、正直あんまり期待してなかった。
 でもハルさんの曲は、衝撃的だった。ミニマルで陽気なリズムのアコースティックギターと、その旋律をなぞるかわいらしいボーカル。それだけだった。それだけなのに、どうしようもなく胸が高鳴った。
 わたしは誰もいないところでハルさんの曲を何度も聴いた。
 何度も口ずさんだ。
 
 昔のことを思い出していたら、幽霊のハルさんがわたしのパソコンをチラチラと見ているのに気付いた。
「ハルさん、パソコン使いますか?」
「あ……今日の野球のニュースを見たいかも。この家、テレビが無いし」
 たしかに、この家にはモニターしか置いていない。
「わたし仕事用のパソコン使うので、そっち勝手に使っちゃっていいですよ」
「ありがとう。……言いづらいんだけど、さっき勝手に電源付けちゃった。そしたら画面に、僕の動画が出てきて」
 自分の顔が一気に紅潮するのが分かった。昨日の夜、ハルさんが以前ツイッターで告知してたライブの動画を流しながら考え事してたんだ。それを閉じるのを忘れていた。
「すいません、ハルさんの曲、昔から好きで」わたしは白状した。
 何年も連絡すらしてないのに、今だにハルさんの音楽活動をときどきチェックしてるなんて、ネットストーカーじみてるし、気味悪がられそうで、あんまり知られたくなかった。
 でもハルさんはなんだか嬉しそうで、「まあ僕、天才だしね」なんて言ってる。野球のニュースが好き放題見れるようになって喜んでただけかもしれないけど。

 その後は二人でゲームをした。大乱闘スマッシュブラザーズだ。ハルさんは「僕、天才だからさ、こういうのあんまりやったことないけど、強いよ」といつもの調子で得意げだ。すぐにわたしのカービィでボコボコにしてあげた。さっきの仕返し。
 
 夜も、同じベッドで一緒に眠った。というか、ハルさんが先に我が物顔でわたしのベッドで寝ていたから、どうしようもなかった。正直、下心的な気持ちが全く無いわけじゃなかったけど、大学生の姿をしたハルさんに無神経に触るのは、この世のタブーに触れることと同じような気がして少し恐ろしかった。なによりハルさんは幽霊だし。
 それに、大人の男性にしては少し小さめのハルさんの背中は、少し前に別れた恋人によく似ている。つい数年前まではここで彼の背中を眺めながら、この時間が永遠に続いて欲しいとよく願ったのに。ほんの少しの歪みが、気付いた頃には大きな溝になっていた。

【2日目】
 次の日の朝。わたしはいつもの頭痛と吐き気の発作で目を覚ました。ハルさんが眠っていることを確認して、目眩のせいでまっすぐに立っていられない足を引きずり、トイレで激しく嘔吐した。
 早く薬を飲まなくちゃ。そう思って顔を上げると、ハルさんが不安そうにこちらを見ている。
「どうしたの」
「いや、持病の発作で。慣れてるから平気です。目眩で歩けないので、冷蔵庫に入ってるゼリーみたいなやつ、とってくれたら助かります」
「分かった」
 ハルさんが薬を持って来てくれた。普通ならついでに背中をさすったりしてくれそうなものだけど、ハルさんは手持ち無沙汰のようだ。

 そういや、ハルさんってそういう人だったな。昔、お酒で酔ってわたしの身体を触った男の人がいた。ハルさんと付き合いの長い友人だったらしいけど、そのときハルさんはずっと上の空だった。自信家っぽく振る舞うわりに、ハルさんは実は臆病だ。いざというときに身動きが取れない。

 わたしは床に倒れ込んだ。
「床じゃ痛いでしょ」落ち着かないハルさん。
「いや、ひんやりして、気持ちいいです」わたしは呻くように答えた。
 それを聞いて何か思い付いたかのように、ハルさんがわたしの隣に寝転んだ。
「何、してるんですか」
「君が、ひんやりして気持ちいいって言うから」天井を見つめながらハルさんが言う。
「やっぱり硬くて最悪だな」軽く毒づくハルさん。

 そうだ、ハルさんは臆病だけど、すごく優しい人だった。以前わたしが終電を逃したとき、ハルさんは自宅まで歩いて帰れる距離だったのに、グダグダ文句言いながら、結局始発まで一緒にいてくれたんだ。

 幽霊のハルさんも、わたしの発作がおさまるまでずっと隣にいてくれた。

 夜、ベッドの中でハルさんの手を握ってみた。ハルさんの手が少し反応したけれど、握り返してはくれなかった。そのまま、眠りについた。

【3日目】
 次の日はハルさんの方が早起きだった。幽霊のくせにちゃんと朝に起きるんだって変なことを考えた。
「おはよう。体調はどう?」いつになく優しいハルさん。
「今日は大丈夫です」正直に答えた。
「じゃあ、散歩しようよ。幽霊と」
 外に出ると想像以上に人が少ない。お盆休みの中日だし、みんな遠出しているのだろう。
 ハルさんが蜻蛉を見つけて子供のように走り出す。日差しが眩しい。遠ざかるハルさんが光の中へ消えていきそうで少し不安になった。
「公園見っけ。休憩しようか」
 都心にしては、大きい公園だ。あの頃みたいに、ベンチに座って二人で話す。
「このあたり、僕の地元なんだ。だからよく知ってる」
「それは奇遇ですね」
「本当は、君の家で目を覚ましたとき、最初に実家に帰ったんだ。そしたら、僕が事故に遭ったせいなんだけど、たまたま病院から帰ってきてた親が酷い顔してて。ああいう雰囲気は苦手で、すぐに君の家に戻った」
 わたしはハルさんの話を黙って聞く。
「なんとなく分かってきたよ。霊はお盆の4日間だけ、この世に帰ってこれるって言うでしょ。僕がここにいれるのはお盆が終わる明日までだ。明日はさすがに、実家に帰るよ」
「そうですか。仏様が、ハルさんの魂をご実家に返そうとして、近くにあるわたしの家と間違えたのかもしれないですね。仏様は、お盆が繁忙期なんですね。同情します」
 わたしは自分の感情を悟られないよう、つい饒舌かつ無愛想になった。ハルさんの顔を見ることができず、地面を眺めた。
「そうかもね。でも君と会えたのはラッキーだったよ。幽霊なのに昔と同じように接してくれたし。今はあんな立派なマンションに一人で住めてるくらい、しっかり自立できてるんだ。すごいね」
「うちの大学出てるなら普通です」
「そうなんだ。女の子の友達ってあんまりいないから、知らなかったよ」
 じゃあ大学のとき、どうしてわたしなんかと仲良くしてくれてたんですか、と聞きたくなって、でもやめた。当時も何度か自分の気持ちを伝えたけれど、いつも優しく拒否されたし。

 どれだけプラトニックな関係でも、お別れの挨拶には、肩を抱き寄せたりするものだ。でもハルさんは、もちろんそんなことしない。わたしもハルさんとの別れを惜しんで涙を流すべきだったかもしれないけれど、そんな気分にはなれなかった。だって幽霊になる前から浮き世離れしてたハルさんが、目を覚ましたら本当に幽霊になって蝶みたいに世をふわふわしてましたってストーリーは、どこかの国のおとぎ話みたいで、泣くには綺麗すぎるだろう。

「僕もがんばるよ。君みたいなファンもいるしさ」
 ハルさんと目が合った。大きな瞳がこちらをまっすぐに見つめている。……幽霊なのに何を?っていうツッコミは野暮だと思ったので我慢した。

 家に帰って、また一緒にスマブラをした。何回か負けた。どうやら2回目にしてコツを掴んだようだ。悔しいけど、ハルさんはやっぱり天才だと思った。

 その日の夜は手を握らなかった。同じベッドの中で、お互いの呼吸を確かめ合うだけ。これくらいの距離感が丁度良いと思った。ハルさんを抱きしめることができない寂しさより、近付きすぎてこの気持ちが歪んでしまう怖さのほうが大きかったから。

【4日目】
 次の日、目を覚ますとハルさんはいなかった。昨日言っていた通り、実家に帰ったんだと思った。

【n日目】
 後日談。ハルさんは生きてた。風の便りで知った。
 酷い事故で丸3日間も意識の無い状態だったらしいけれど、既に元の生活に戻っているそうだ。
 
 幽霊のハルさんに、言えなかったことがある。
 本当は持病の発作がたまらなく怖くて、生きるのをやめようと思っていたこと。
 ハルさんの地元に住んでいるのは、偶然じゃないこと。
 わたしはハルさんが今どこに住んでるのかなんて知らないし、あまり興味も無い。ただ、この場所にいれば、ハルさんのことをいつでも思い出せる。自信家なのに臆病で、天才なのに優しくて、いつまでも地に足がつかないハルさんのことを考えると、どれだけ苦しいときも、なんだか笑けてきちゃうから。
 こんな恋は、きっと最初で最後だろう。

 最後に、これは後から分かったことなんだけど、仏様は間違いなんかしてなかったみたいだ。その証拠に、ハルさんはわたしが好きだった頃の姿をしていた。わたしがハルさんにすぐ気付けるよう、仏様は細工をしたんだ。生きるか死ぬかをさまよっていた、まだ若すぎる二人の魂を、一か八かで引き合わせるために。
 ハルさんが公園で話してくれたお別れの理由は、きっと優しい嘘だったね。

 わたしは今日も生きていく。
 ハルさんの曲を口ずさみながら。

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