ゴジラと山崎貴と庵野秀明 その1

2023年7/12
以前より制作が発表されていた山崎貴監督の「ゴジラ」が発表され30秒トレーラーが公開された。
ゴジラ生誕70周年記念作品と銘打ち「シリーズ史上最悪の絶望が日本を襲う!」と公式サイトも公開された。

この30秒トレーラーが公開されるやいなやツイッターのTLは様々な意見が湧き上がった、予想通り「ドラゴンクエストユアストーリー」の二の舞いにならないかと心配するもの、大喜利、それはともかくとして期待を叫ぶものなど様々。
私の観測範囲では否定的な流れの方が多数派のように見えた。
かくも私はどちらかといえば作品に期待をしている側だ。
山崎貴監督といえば2000年の監督デビュー作「ジュブナイル」次作の「リターナー」の評価が高い一方で、「ALWAYS 三丁目の夕日 」や「BALLAD 名もなき恋のうた 」「STAND BY ME ドラえもん 」など、興行的には成功しているが原作を大きく改変する作風から原作ファンより否定的な評価がなされる監督だ。
その最もたるものが「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 」である、この作品についてはさんざあらゆる媒体で批評されているので怖いもの見たさで見ている人も多いかもしれない、これについての委細は後の部分で触れたいと思う。

スクラップアンドビルド「シン・ゴジラ」

山崎貴監督作品「ゴジラ-1.0」を語る上ではまず庵野秀明監督作品「シン・ゴジラ」について触れなければいけない。
言わずもがな「シン・ゴジラ」はおそらく日本ゴジラ作品の中では最高傑作に位置する作品であると思う、少なくとも私にとっては。
初代1954年版ゴジラをリスペクトし、人間の業により生み出された怪獣、その業に振り回されかつて日本を襲った東日本大震災と爆発した原子力発電所のメタファーとしてのゴジラ、そして虚構ではあるがその対策に勤しむ政治家官僚たちと、1954年では踏み込めなかった日米関係、2010年代に日本をゴジラが襲ったらという架空シミュレーション、等など単品の映画として語るところが多く、映画としてみても大多数の「おたく」が納得ゴジラの最高傑作であるように思う。
そんな「シン・ゴジラ」であるが、今後ゴジラ作品が登場するにつれおそらくはこの「シン・ゴジラ」が一つの基準点となり、「ゴジラ」を関する映画はこれより上か下かでジャッジされる危険性が孕む、あくまでも時代と庵野秀明と予算などの好条件が諸々重なった奇跡的なものであってこのような作品が続々と別の監督によって平成VSシリーズの様に続くとは考えづらい。
映画シリーズではないゴジラはいくつかは作られているが、やはり外伝もしくは別世界としての位置づけで扱いづらいのが実情に思う。
ゴジラシリーズ、もしくはシン・ゴジラによって上書きされたゴジラのイメージをどの様にすればリセットすることができるのだろうか。
 結論から言えば私は山崎貴監督がゴジラを描くことに肯定的である。
先述のとおり、原作ブレーカーとして原作を素材にして全く意表をついた表現やシナリオ賛否分かれる作品を作ってきたが、ファミリー層やエンターテインメント作品で安定した興行を叩き出し、知名度や実力も伴った監督である、但し原作ブレーカー。

ゴジラの命題

ゴジラの命題とは近年宇野常寛の著作「母性のディストピア」によってその概念が提唱された。

虚構を通じてしか捉えることのできない現実(具体的には、戦争)を描くこと

『母性のディストピア I』81−82頁。

怪獣映画の命題とすればイメージが付きやすいのかもしれない。
この概念には色々戦後日本的な問題を内包しているのだが、まだちょっとよく理解できない、というか1度読んだきりで半ばうろ覚え、パンチラインにいいなぁと言う心持ちでこの言葉を持ち出した。

さて、この言葉に軸足を揃えよく言われるゴジラのメタファーの話に移ろう。
1954版ゴジラとは「水爆」「戦争」「大日本帝国の亡霊」「核の傘からの庇護」「被爆者」「荒ぶる神」「災害」等のイメージを重ねられて論じられる。
アメリカの水爆によって生み出された荒ぶる神が南の島より戦争の記憶も新しい日本東京に上陸し破壊の限りを尽くす、それに応戦する日本の防衛隊、芹沢博士のオキシジェンデストロイヤーと博士の人身御供により荒ぶる神ゴジラにお帰りいただくことに成功する。

ゴジラは米国の水爆の被害者であり、米国の核の傘の庇護に対しての後ろめたさであり、恐ろしい太平洋戦争の再来であり、人間の手に余る災害であり、決してコントロール下における物ではなく、ゴジラを滅する兵器は永遠に失われた。
そして、武力を永久放棄した国は「防衛隊」という組織を用いてゴジラという虚構の怪物と対峙する事を余儀なくされる。
1954版ゴジラというのは敗戦国日本のジレンマの表出であった。

ゴジラ映画にはお約束のようなものがある、ゴジラは放射能や核といった今の人類では手に負えない技術の業より生まれた、ゴジラは都市を壊す、ゴジラはオキシジェンデストロイヤー以外では決して滅ぼされない。
ゴジラにお帰りいただくルールは都市を破壊し尽くすか、ゲスト怪獣等の犠牲程度である、何れにしろ人類に対抗手段はない。

さて話を戻そうとするが、山崎貴監督作品「ゴジラ-1.0」はどうやら戦後まもない頃の日本が舞台となるらしい。
これまでのゴジラは公開時期の同一時間軸か外伝でも遠未来が舞台だった。
ある種神格化され、不可侵とされた1954年以前を舞台にすることで、ゴジラのルールを壊そうとする部分が見え隠れする。
もちろん防衛隊は愚か自衛隊も警察予備隊も無い、日本防衛の頼みの綱はGHQしか無い、オキシジェンデストロイヤーも登場することはきっと無いだろう。
真っ向から「ゴジラの命題」を否定とする姿勢に、どのようにゴジラを壊して見せてくれるのか今からとても楽しみだ。
 


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