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年末年始を生き抜くということ|2023-01-13

今回は、うでパスタが書きます。

新年あけましておめでとうございます。本年もビブリオテーク・ド・キノコをどうぞよろしくお願いいたします。

一定の年齢をすぎますと、「あけましておめでとうございます」とご挨拶を交わす相手に旧年中の不幸があったという確率が異常な角度で上昇してきます。「家族」というわけではありませんが、親族としては私自身も昨年最後のグランドペアレントを亡くしておりますし、従兄弟にいたってはおなじ年に祖母をふたりスイープされています。
かつては暮れになると「喪中のご挨拶」というハガキが届き、「近親を亡くしたので新年のご挨拶(要するに年賀状)を失礼させていただく」という報せがあったので、そちらの先にはこちらからも年賀状を送らないように気を付けるといういささか厄介な風習がありました。すべて郵政省のでっちあげたブルシットであったという気がいまではしますけれども、ご大層な「住所録」から毎年何百人という方々の住所を書き出しては年賀状を発送していた(そして新年にはやはり何百通の賀状を受け取っていた)私の親や祖父母の世代にとって、これはなかなか失敗のできない一大事だったようです。
昨年末にも従兄弟の家からは「喪中のご挨拶」がご丁寧に届いたのですが、たしかにこの家からは(つまり私の伯父からは)いまに至るまで毎年丁寧な年賀状を頂戴していたのでした。ただしこれには基本的に返礼をしていないので今年も特に失礼になる心配はありません。しかし思えば十八のときに家を出てから昨年ついに十五回を数えるまで引越しを繰り返してきた私に対して、長きにわたり毎年毎年この習慣を絶やさずにいてくれているのですから、何が狙いかは分かりませんが、もし真心からのことでしたら私ももう少し感謝した方がいいのでしょう。

それにつけても「旧年中の不幸があった相手に“あけましておめでとうございます”と言ってはいけない」というだまし討ちというか闇討ちみたいなマナーは本当にムラ社会的で思わず声が出そうになります。それは「奥さんが」「お子さんが」亡くなったということが即座に伝わるような間柄ならそもそも通夜や葬儀に参列しているでしょうから、まだまだおめでたいどころの心境でもないだろうということぐらいは常識の範囲で分かりますが、事実上年賀状のやりとりぐらいしかないひと(いまでいえば、誕生日にFacebookで「お誕生日おめでとうございます!」「今年は飲みましょう!」というやりとりを毎年するだけの関係)の誰が死んだとか、もう正直「知らんがな」としか言いようがありませんし、こちらは知らんと思って「あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします」と言わせてくれよというところで、まぁ結局世界が広くなっていく過程でこういう「相手のすべてを把握しており、それに配慮している」ことが必要だという過剰なマナーが(年賀状とともに)後退していくのはありがたいことです。
もしかしたら京都のようなところではいまでもこういう闇討ちが行われているのかもしれません。もしそうならばこれは京都の人間が底意地悪いからではなく、京都という街が生活圏としてあまりに魅力に欠けるため外から入ってくるひとが足らずにムラ社会がいまに至るまで維持されているというだけのことでしょう。間違ったジャポネスクに浮かされたフランス人や中国人がバンバン土地を買ってめちゃくちゃになればいいのに、と心からそう思います。

現在ではどれだけ親しくても年賀状を交換することがないというか、そもそも相手の住所を知る機会がありませんので、「父が亡くなりました」「母が亡くなりました」ということをFacebookにポストしてくれるひとが結構います。結構といっても私はFacebookで「友達」になっている五〇〇人ぐらいのうち四〇〇人以上をミュートしているので、見えている範囲でそれだけのひとが肉親の訃報をポストしているということは、本来この歳だと日々まぁまぁな数の訃報に「いいね!」することになるのでしょう。知らせてくれるのは悪いことではありませんが、そのひとにとって大きなライフイベントが他のひとにはほとんど何の意味ももたないばかりかあるいはもはや食傷気味であるという悲しい現実が、逆にこうして開かれた世界ではあきらかになることがあります。そうした意味でFacebookはもはや毎日届く年賀状と成り果てていますし、遠からず年賀状とおなじ運命をたどることは間違いないでしょう。

さて、私もご多分にもれず、年始に今年の抱負を定めました。これをGabaの英会話講師に話しておりまして、
「抱負って知ってるだろ、日本人はだいたい年始にこれを定めて“今年の抱負はなんですか”なんてことを挨拶代わりに尋ねんだ。英語ではこの抱負をなんて表現する?」
と質問しましたら、
「英語を話す人間はそういう曖昧な目標を定めない。たとえば強さを求めるのであれば、フィジカルな強さなのか、メンタルの強さなのか、病気に対する強さなのか、もっとはっきりとその目標を定義することが必要だ」
と、私たち日本人が必死で抱負を考える一方で現実から巧妙に逃れようとしていることをいきなり指摘されてしまいました。私がGabaに高い金を払っているのはこういうことがあるからです。

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