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選択肢/暗闇の底|2023-09-06

今回は、うでパスタが書く。

「ほかニ、せんたくしハ、アリマセン」と言ってカルロス・ゴーンが「日産リバイバルプラン」を発表したのは一九九八年のことで、その目玉のひとつは村山工場の閉鎖だった。
私は当時まだ大学生で、日本の経済状況がどうやらどこかですでにXデーを通過してしまっているらしいということまでは何とか感知するにいたったが、果たしてこれからすべてがどこへ向かっていくのかまでは、まだ想像することもできなかった。

文字どおりの戦中派であった母方の祖父は皮肉屋で、親戚が集まった折にやはりゴーンの話になると「あれは日本人にはできない首切りをやるために呼ばれた首切り屋だろう、戦争に勝つためにチャーチルが呼ばれたようなもので、役目が終わったらどうせまたすげかえられるに違いない」と笑っていた。
「そんなものか」と私などは思ったものだが、実際にそうした見方が当時世の中の一方にあったのかもしれない。しかし日本という国も日産という企業も英国ほどしたたかになれないことは今日にいたるまで嫌というほど証明された歴史的な事実だ。ゴーンがふたたび「他に選択肢はなかった」と記者会見で説明するのはそれから実に二〇年あまり後の二〇二〇年、保釈中に国外へ逃亡した先でのことだ。引退への道を敷きつつあったCEOを検察へ突き出したのは日産内部のチームだった。

実は私の同級生には経営者としてカルロス・ゴーンを尊敬していた人間が多い。そしてその多くは同時に竹中平蔵への尊敬をも隠そうとせず、なかには「息子が生まれたとき、名前を平蔵にしようと一度は考えた」というのもいる。

「バブル崩壊」は決して一九九〇年の一年に起きたわけではなく、それはおおよそ一〇年に渡って進行したとめどのない、泥沼のようなプロセスだった。バブルそのものが海外から流れこんだホットマネーや金融政策の失敗によってのみ引き起こされたものなら、せめてああはならなかったであろうという社会の構造全体を巻き込んだ混乱を思うにつけ、それは戦後の復興期になし崩し的に築きあげられた無秩序な秩序がそのまま高度成長によって肥大化し、やがて自身の歪みに耐えきれず崩壊した、そういう物語なのだという永野健二の解釈だけが正しいように思える。おかげで私たちはバブルが破綻したあと、社会を再建するためのシステムそれ自体を持たないことに気付かされ呆然としたまま現在にいたっている。

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