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中毒 | weekly vol.0118

燃え尽きたというと、燃やせるものは燃やしたという感じなので、これは燃え尽き症候群ではない。どちらかというと、火力が弱くなり、まだ薪や炭が残っているのに火が消えてしまったという方が正確な気がする。燃えていない薪や炭というのは、本来燃えて然るべきと用意された燃料であり、それはつまり人生の残された役割であったりするのだろう。

今回はそんな中年の危機に晒されている心境を珍しく綴ってみたいと思う。

煉獄さんは心を燃やせ、と言っていたが今から思えばその時にも共感はできなかった。今思えばコロナの始まった頃と機を同じくして、あるいは不惑という年齢のせいなのか、やる気というものを探し出すのに苦労するようになった。ちなみに、長野県の方言ではこのようなやる気、根気のようなものを総称してズク、と言い、小学生の頃などに寒いから外で体育をするのが嫌だ、などと言おうものなら教師からズクを出せ、と檄を飛ばされるのである。これがまた嫌だった。もちろん、自分の好きなことなら何十時間だってやり続けられるという時期がなかったわけではないし、受験勉強もそれなりに時間をかけてやったこともある。本を読んで夜明けを迎えたことは何度もあるし、今でも踊り明かすことがないわけではない。とはいえ、その頻度は激減しているし、普段の生活というのはとにかく、何をやるにも、よっこらせ、と声をかけないと立ち上がることすら出来ないという有様なのだ。

正しく老いるというのは自分の状態を把握しながら、長く続けられるように自分の趣味や生きがいを見つけて幸せに生きていく、という作法を身につけることなのだろうと思う。これができないと、いわゆる若作り鬱と言われる状態になる。これは若い頃と同じように生活をしようとしてそれが出来ないことによるギャップから精神的に弱っていくというもので、自覚のなさに起因するものなのであろう。

会社組織などにいて、それがそれなりの規模であれば若者や老害と接する機会もあり、反面教師を参考に自覚を持つ機会もあるのかもしれないが、中途半端な属し方をしていたり、あるいは社会との接点がそもそもなかったりすると、なかなか自覚を持つのは難しい。人間というものは比較によって相対的に自らの位置を確認するものであり、それゆえ社会との接点を失うと自己中心的な地主や引きこもりニートのようになってしまい、狭い観測領域での出来事から被害妄想を膨らませることになる。

ここで重要なのは社会との接点を持とうということではなく、自覚を失っているという自覚を持とうということだ。適切な自己像を持たずして自己研鑽に励むことは出来ないし、ましてや内発的動機づけを伴う幸福な生活などというものを営めるはずがないのであるからして、まずは己を知るということが必要なのではないかということだ。社会との接点を持つというのは、その自己把握のための一つの方法である。例えば、たまたま入社した会社で人事部に配属され、採用担当者になったことで、誰を採用すべき、あるいは採用すべきではないかということを己の判断としてしているという自覚を持ってしまった場合、それをSNSで発信してしまい、批判に晒されるというのも社会との接点の持ち方の一つではあるかもしれないが、このような社会との接点でもあった方がいいのかというとそれは疑問であり、あればいいというものでもないというのが悩ましいところではある。まあ社会との接点というのは何も会社組織に所属しなくても得られるものであるし、それは地域コミュニティの中で何かしらの役割を担うことでも得られるものであり、ようは自分以外の他者と役割分担を通じて相対的に評価のフィードバックを得るということが重要だということだ。

さて、話は戻るが中年の危機というのは全てが面倒になってしまう、というところにその危機のどうしようもなさというものがある。挫折や精神的な苦痛によって陥る危機というものではなく、加齢に伴い失われてしまうやる気の喪失なのである。適切なフィードバックを得ていたとしても、それによって軌道修正をすることすら億劫であるというところに問題がある。とにかく寝て夢を見ていたい、みたいな心境になってしまうのである。ちなみに億劫の「劫」はサンスクリット語「kalpa」の音写で、古代インドで最長の時間の単位であり、「一劫」の長さは、100年に一度、天女が高い岩山に舞い降りてきて羽衣で頂上を撫で、その摩擦で岩山が消滅するまでの時間という、限りなく無限に近い時間を表す、と言われている。こういう言葉が昔からあるということが何を意味するかといえば、中年クライシスのような何もやる気が起きないという心境に陥ることはなにも現代的な病ではなく、太古の昔からあるということだ。つまり人間にとっては普遍的な現象であり、昔は50歳といえば長生きだったと言われているように、40歳といえば晩年も晩年、孫もいてあとは死を待つばかりというような状況だったわけで、それが急に人生100年です、ライフシフトをしましょうとか言われても困ってしまうのである。

昔に比べて栄養状態が改善されて長生きできるようになりました、と言われて困ることの一つに、栄養状態が良すぎて、痩せられないというのもある。肥満というのもやる気を削ぐ要因の一つであり、怠惰の象徴ともされている。肥満が裕福さの象徴であったのは今はもう昔の話で、食生活のバランスコントロールと、適切な運動による体型の維持こそが裕福さの証になっているのが2022年の世界である。体型を維持するように、かつ栄養状態に偏りが無いように計算された食事というのは、適当にスーパーに行ってタンパク質や炭水化物の塊を購入してきて調理して食べるのとはわけが違うそれこそ贅沢なのである。中年になるに伴い代謝が低下していくにも関わらず、食生活が20代と変わらないというのはそれこそ生活習慣病のもとになる。とはいえ、肥満や生活習慣病になってもすぐに死ぬわけではなく、年に一度の健康診断で注意を受けつつ、なんとなく改善しなければみたいな気持ちでまた一年と年を重ねてしまうのである。

なぜベンチャー経営者は筋トレにハマるのか、という話があるが、これは話が逆で、ベンチャー経営者のようなバイタリティのお化けのような存在でないと筋トレにハマって継続するということができないのである。筋トレという身体的に苦痛を伴うものを中毒の域にまでもっていき、習慣化するというのは執着心とバイタリティがなければできないわけで、通常の精神の人間であればジムの入会金を払い、他のサブスクリプションサービスと同じように養分とされていくというのが関の山のではないだろうか。


とまあ、中年の大きな問題であるやる気の喪失と痩せない、という2つに立ち向かうのが今年の目標なのではあるが、そのためにはまず何をすべきなのだろうか。

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